デ・レイケの遺産 「榛名の守護神」後世へ
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 衝撃の出合いは6年前の夏に訪れた。榛東村内の花の名所「ポピーの里桃泉」に出掛けた帰り道、ふと「八幡川とデ・レーケ」(原文のまま)と題された説明板を発見。巨石砂防堰堤(えんてい)という具象として私の村にも「わが国砂防の父」ヨハニス・デ・レイケ(1842~1913年、オランダ出身)の足跡が刻まれていたことを初めて知った。

 高校地歴科教諭という職業柄、その高名を防災・減災に劇的な成果を上げた木曽三川分流工事を指導・完遂した「御雇い外国人」として記憶していたが、まさに「灯台下暗し」だった。

 早速、およその築堤場所を書き込んだ地形図を手に仲間と八幡川の河床を遡上(そじょう)。際限なき藪漕(やぶこ)ぎに閉口したが、陸上自衛隊相馬原演習場に隣接した杉林の木陰で4号堰堤を確認した。

 堰堤本体は高さ5~6メートル、幅約13メートル。縄が緩んだような独特な形状は、先学の指摘通り、それぞれ形や大きさの異なる天然石を近世城郭の石垣のように堅固に積み重ねて構成されていた。築堤には多大な労力を要したことはもちろん、優れた石工の技術が駆使されたに違いないと直感した。

 榛名山麓に現存する巨石砂防堰堤(通称「デ・レイケ堰堤」)の起源は明治時代初期までさかのぼる。明治14~18(1881~85)年の間に滝の沢川や自害沢川、八幡川、唐沢川、榛名白川など、南・東麓を流下する諸河川の上流部に計120基築かれた。

 その大半は崩壊や埋没で地上から姿を消したが、築堤後130年以上が経過した今日、なおも「榛名の守護神」として現役で地域防災に貢献しているものもある。

 だが、防災対策の成功事例として顕彰されるべきデ・レイケ堰堤の惨状には言葉を失った。堰堤直下には天端から投げ捨てたとおぼしきペットボトルや空き缶、ガラスの破片が散乱。懐かしい昭和の家電製品の数々、さびついた自転車や三輪車も転がっていた。巨石を積み重ねた堰堤本体もツタや草に覆われ、目地に小低木の根が張り出すなど、東日本唯一の希少な近代土木遺産は見るに堪えないありさまだった。

 こうした惨状を憂い、私は2016年3月、国土交通省や群馬県に協力を仰ぎ、「榛名山麓のデ・レイケ堰堤を見守る会」を設立。クリーン作戦への参加を通して八幡川に遺(のこ)るデ・レイケ堰堤の保存・顕彰に乗り出した。

 以後、私たち見守る会は「防災を行動に」をスローガンに掲げ、同志とともにデ・レイケの遺産を後世に受け継ぐことで榛名山麓における災害履歴の周知に努めるとともに、身近な地域の災害リスクを検証することの大切さを叫び続けている。

 クリーン作戦の問い合せは大林(070-6401-5508)まで。



榛名山麓のデ・レイケ堰堤を見守る会代表 大林和彦 榛東村新井

 【略歴】高校教諭で現在は前橋清陵に勤務。2016年に見守る会を立ち上げ。高校通信制「地理B学習書」(NHK出版)を執筆。群馬大教育学部(地理学専攻)卒。

2019/11/10掲載

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