新たな縁とともに 伊勢崎銘仙への旅続く
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 伊勢崎銘仙の魅力に取りつかれて約20年になります。きっかけは、1998年に伊勢崎市観光協会(現観光物産協会)の臨時職員となり、国の伝統的工芸品の「伊勢崎絣(がすり)」に出合ったことです。旧尾島町出身で、10年勤めた職場は前橋市でした。たまたま伊勢崎に住むようになったのが、銘仙への旅の始まりです。

 昨年末に観光物産協会を辞め、慣れ親しんだ「いせさき明治館」(黒羽根内科医院旧館)を離れました。明治館は2002年秋、中心商店街から100メートル北へ曳(ひ)き家移転した市指定重要文化財です。伊勢崎駅から徒歩7分で、市の観光拠点として伊勢崎銘仙を展示しています。

 たくさんの方々が明治時代の建物と銘仙を鑑賞にいらっしゃいました。来館者と銘仙談義で盛り上がり、ここでの7年間は私にとって濃密な日々の連続でした。

 初めのころ戸惑ったのは、市内の人の銘仙に対する非常に低い評価です。「銘仙は普段着よね。母や祖母が、生地が弱くってすぐ裂けちゃうって言ってたわ」「どんなに色がきれいでも、銘仙はお茶会や正式な場に着ていけないわね」「こんな派手な銘仙は伊勢崎では作ってなかった」などなど。銘仙は低級絹織物、くず繭で作った日常着だから展示に値しないと言われたことが何度もありました。

 身近な人ほど、その価値に気付きにくいのはよくあることです。浮世絵も海外から評価されて、初めて日本で再認識されました。今では立派な日本発の美術品です。

 伊勢崎銘仙は高価なブランド着物ではないけれど、半世紀以上前の職人さんたちの努力の末に完成した「織りの芸術品」だと思っています。無名職人たちの技の結晶です。

 銘仙技法の中でも最も高度で再現不可能と言われていたのが「併用絣」でした。3年前、復活に向け、「いせさき銘仙の会」代表世話人の杉原みち子さんと発起人になり、3柄16反を完成させました。14工程20人の職人技は素晴らしく、感動そのものでした。

 その後、貴重な機械が失われたり、職人の1人が亡くなったりと予期せぬ悲しいことが次々に起きてしまいました。現時点で併用絣の一連の工程を見ることができなくなってしまいました。この現状からどう継承していくかを模索中です。

 春から自宅で「伊勢崎銘仙プランナー」として動き始めました。多方面からさまざまな分野の方が来てくださり、銘仙でつながる新しい縁が生まれています。

 お世話になったなじみの職人さんたちとの絆をより深めながら、浮世絵のように銘仙が日本の伝統文化の芸術品として認められる日を夢見て…。私自身は大河に砂粒をまくようなことしかできませんが、多勢の人によって大きな波紋になることを願って、前に進もうと思います。



伊勢崎銘仙プランナー 金井珠代 伊勢崎市波志江町

 【略歴】2016年に併用絣(がすり)を復活させたプロジェクトの呼び掛け人を務めた。1998年に伊勢崎市観光協会(現観光物産協会)臨時職員となり、21年間勤務。

2019/12/05掲載

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