愛国心との付き合い方 バランスを失わずに
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 愛情に関して「好きの反対は無関心」とよく言われる。人は恋愛感情や愛情を失ったとき、嫌いになるのではなく単に関心を失う。大学で政治学を教えていると、似たところがあるなと感じる。地域や国家への愛着があればこそ、それを良いものにしたいと思うが、愛着がなくなればどうでもよくなるからだ。

 投票率の問題も同じだろう。好きでもないことについて真面目に考えて投票に出掛けるほど有権者は暇ではない。政治に関心を持つべきだと分かっていても義務感には限界がある。自分の一票が政治を動かす実感も、よほど競った選挙でもなければなかなか得られない。地域や社会とのつながりが希薄になれば、投票率が落ちるも道理だ。

 さりとて、好きになれと言われて好きになるようなものでもない。しかもやっかいなことに、郷土愛や愛国心は容易に排外主義や傲慢(ごうまん)に転じる。無関心は嫌いを生まない。好きこそが嫌いを生み出し、憎悪が突き動かす最悪の政治を招く。

 共同体や国との心情的な結び付きをどうすべきかという問題は、政治教育では避けえぬ悩ましい問題になる。ことその点が明記された教育基本法との関係では抜き差しならない。このことを考える際に、私はいつもリチャード・ローティ「アメリカ 未完のプロジェクト」(晃洋書房、2000年)の冒頭の一説を念頭に置くようにしている。やや長いが引用する。

 「国家の誇りと国家の関係は、自尊心と個人の関係と同じ関係にある。つまり、その関係は自己改善に必要な条件なのである。国家が誇りを持ちすぎると好戦的性格と帝国主義が生じてくる。それは個人が自尊心を持ちすぎると傲慢になるのと同じである。しかし、自尊心が少なすぎると、個人は所信を貫く勇気を発揮することができなくなる。それと同じように、国家に対して誇りを持たなくなると、国家の政策について活発で効果的な討議が行われる見込みはなくなる。政治に関する審議を想像的で生産的にするためには、国家と感情的に係わること―自国の歴史のさまざまな部分や現在のさまざまな国家の政策に対して羞恥したり、輝かしい誇りを感じたりすること―は、必要なことである。だが、想像的で生産的な政治に関する討議は、誇りよりも羞恥心が強ければ、たぶん生じないであろう」

 著者はアメリカを代表する哲学者の一人であり、本書はアメリカにおける左翼運動の再構築を企図した論考(講演)である。

 言われてみれば右も左も関係のない当たり前の話。だが、政治となると力んだり斜に構えたりで見失いやすい。愛国心を煽(あお)って排外主義を呼び込んだり、毛嫌いして無関心を招いたり、バランスを失うことのないよう考えさせる教育を心掛けたい。



関東学園大教授 並河仁 太田市浜町

 【略歴】【略歴】2003年に関東学園大講師、15年から現職。専門は政治学。京都市出身。京都大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。

2020/2/12掲載

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