観音山古墳と群南支所 奇跡醸した二つの答申
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 国の文化審議会は3月19日、「群馬県綿貫観音山古墳出土品」を新たに国宝に登録するよう、文部科学大臣に答申しました。ご存じの通り、この出土品とは、群馬県立歴史博物館で常設展示されている「綿貫観音山古墳」の埴輪(はにわ)や金工品のことです。

 文化財保護法では、国宝を「国が日本の歴史を語る上で必要であると考えた重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」と規定します。

 見る者を魅了し、古代日本の繁栄の姿を伝えつづける「群馬県綿貫観音山古墳出土品」は、今回の国宝答申により、世界に誇る日本の宝に認められたのです。

 ところで、この日、もう一つの答申がありました。「旧群南村役場庁舎(現・高崎市歴史民俗資料館)」の国登録有形文化財(建造物)への登録答申です。これは、築後50年以上がたち、歴史的景観や造形に優れ、再現が容易でないことが選考基準とされる国の登録制度であり、「守るべき伝統的建造物」と国が認める制度です。

 私は、この答申にひとかたならぬ喜びを感じました。それは、どうしてか? 実は、この建造物、綿貫観音山古墳出土品とは深い縁があるのです。そして、それを知るには、今から52年、時をさかのぼる必要があります。

 時は1968年3月4日。この日、綿貫観音山古墳は発掘調査初日でした。以後、延べ約60日間に及ぶ発掘調査が3次にわたり実施されますが、その第1次調査(3月4日~3月17日)の調査拠点となったのが「群南支所(当時)」、今回答申を受けた「旧群南村役場庁舎」だったのです。

 この発掘調査を県立博物館学芸員時代に陣頭指揮された梅沢重昭さん(元群馬大教授)に当時のことをお聞きしたところ、「ここで発掘調査の打ち合わせをし、発掘に参加した学生たちとは寝食を共にした。古墳とは2キロほど離れているが、毎日往復して、発掘を続けた」とのことでした。

 未盗掘のまま、豪華な品々が数多く出土した綿貫観音山古墳。当時「奇跡の発掘」と言われたこの発掘を手がけた調査員の皆さんが、日々刻々と変化する現場の局面に対応すべく、その方針を練った場所、それがこの建造物だったのです。

 まさに、一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係だったこの二つが52年の時を経て同日に答申される、このことに私は新たな奇跡を感じました。

 過去のもの、そのもの自体が変わることはありません。しかし、それが、時を経ることで、新たな奇跡を醸しだす―。「温故知新」ならぬ「温故醸新」。歴史遺産を守り続けること、その意味を改めて知ることとなった、二つの答申でした。



県立歴史博物館学芸係長 深沢敦仁 高崎市上中居町

 【略歴】県埋蔵文化財調査事業団や県教委文化財保護課で文化財保護行政に携わり、2016年から現職。同志社大―専修大大学院博士後期課程修了。博士(歴史学)。

2020/5/20掲載

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