8歳で来日、言語の壁 ブラジル人少女が支え
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 私は8歳の時に両親とともに日本に移住した日系3世のペルー人であり、今は伊勢崎市で中古自動車店と保険代理店を経営している。外国人人口が1万2千人を超える伊勢崎市の土地柄と、社員のうち私を含む半数が外国人であることも相まってか、弊社のお客さまは南米ルーツの外国籍の方が大多数を占めている。

 ときに私たちは車や保険以外の相談を受けることがある。私たちの会社は日本人スタッフもいるため、日本で生活していく中で不安なことや自治体の制度についてわからないことを質問しやすいそうだ。病気や法律問題など緊急を要する質問も多い。

 今でこそ私はこうした相談事を聞けるようになり、専門家を紹介したり、ときに通訳としてサポートしたりできるようになったが、21年前に来日するまでは全く日本語をしゃべることができなかった。

 今日、こうして日本で会社を営むことができるようになるまでに、さまざまな人たちと出会い、私が日本で暮らしていくためのサポートをしてもらった。良い仲間や良い先生に出会うことができた私は、たまたま恵まれていただけなのかもしれない。

 しかし、毎年3千人近い外国人が移住してきている群馬県の現状において、今後の発展と多文化共生の社会を実現するため、私が日本で自立するために経験したことを共有させていただきたい。

 日本に来て最初に感じたことは、言語の壁である。当たり前ではあるが周囲の人たち全員がわからない言葉をしゃべっている上に、母国語であるスペイン語で相談できる人が学校内にいない状況というのは幼い子どもにとっては大変な恐怖であった。

 当時は今ほど外国人移住者も多くない状況下だったので、先生も日本語がしゃべれない生徒を扱うのは大変だったのではないかと思う。日本語を学ぼうにも親もスペイン語をしゃべるので、誰に相談すればいいのかわからない。どうやって習得したらいいのかもわからない。

 そんな中、私が言語を習得するきっかけになったのは、同級生のブラジル人の女の子だった。彼女は日本で生まれ、ポルトガル語と日本語を話すバイリンガルだった。私が生まれたペルーと彼女の母国のブラジルは南米大陸の中で隣接しており、ペルーの母国語のスペイン語とブラジルの母国語のポルトガル語はイントネーションや単語が似ていた。

 違う言語ではあるものの、言葉が似ていたこともあり、私は彼女とコミュニケーションを取ることができた。そして彼女からポルトガル語と日本語を教えてもらった。日本語を覚えてから友達ができるまでは早かった。私が日本に来たときに感じた恐怖は、言語の壁とともに崩れ去ったのである。



アイザワコーポレーション社長 相沢正雄 伊勢崎市田中島町

 【略歴】ペルー生まれの日系3世。1998年に来日し伊勢崎の市立小中学校に通う。自動車販売店と保険代理店を営む傍ら、外国人の生活支援に取り組む。常磐高卒。

2020/11/18掲載

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