足尾と群馬 銅山支えた多くの県民
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 私は子どもの頃、銅山の観光施設の見学をきっかけとして、足尾と鉱山業に関心を持ち、今に至っています。昨年までは「足尾を語る会」という団体の会報(終刊)に、銅山のことを書いて載せていました。

 足尾銅山のことを一般の皆さまに伝えようとする時、二つの大きな壁が存在します。一つ目は、わが国で鉱山という業界、職業が忘れられてしまっていることです。二つ目は、鉱山の事業に起因した公害が強いイメージで社会に根付いてしまっていることです。伝える側がこれらを乗り越えられなければ、銅山の価値を理解いただけないし、銅山関係者の顕彰、そして人間尊重もないと考えます。

 皆さまが足尾銅山の鉱山そのものに注目し、その価値を理解できるよう、栃木県日光市をはじめとする行政、足尾を拠点に活動する市民団体、銅山を経営していた古河機械金属、それぞれが歴史の継承に取り組んでいます。

 歴史の伝え方には、いろいろな形があってよいでしょう。私は銅山について書いた文章の中に、その時々の社会の動き、身近な生活関連事項を含めることで、誰もが銅山を自分と結び付け、関心を高められるような伝え方を目指してきました。

 県内の皆さまに向けて足尾銅山のことを書くならば、やはり地元群馬の情報を含めたいと考えています。足尾は隣県にありながら本県との関わりも深く、銅山はいろいろな結び付きがありました。また、足尾にある鉄道、郵政、国有林などは、長く群馬側の経営拠点に属していました。

 江戸時代、足尾の銅はあかがね街道を通って、太田市(当初は伊勢崎市)の利根川の河岸へ運ばれた後、江戸へ送られました。明治時代、銅山を所有した古河は、新たな輸送手段として馬車鉄道を敷設、その南端はみどり市でした。さらに架空索道(貨物用ロープウエー)を整備、沼田市から木材が、桐生市から石灰石が、銅山へと運ばれました。

 大正時代、古河の主導で現在のわたらせ渓谷鉄道が開通、銅山関係の輸送に大きな役割を担いました。同時に足尾と沿線の経済的な結び付きも強くなりました。昭和の戦時中は、みどり市の渡良瀬川に水力発電所を建設、草木ダムができるまで銅山に電気を供給していました。戦後復興期は、高崎市にさく岩機工場を建設、当初の名称は古河鉱業足尾製作所高崎工場、現在の古河ロックドリルです。

 銅山は足尾だけで成り立っていたわけではなく、これを支えていた人の中に、群馬の人もたくさんいました。次回からは、個別の内容を掘り下げていきます。読者の皆さまが銅山に生きてきた人々への関心を高められ、その人を思う心が日常の優しさ、明るさ、思いやりへとつながるならばうれしく思います。



元足尾を語る会会員 坂本寛明 太田市

 【略歴】幼いころ足尾銅山の壮大な世界に魅了され、足尾を語る会などで銅山の歴史を伝える活動を行う。2019年11月に「何かの役に立つ足尾銅山の話」を出版。

2020/11/21掲載

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