舞い降りた天使(1) 生きる姿、今も光放つ
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 私は高校から銀行に就職し、4年勤めて結婚しました。親となる実感を味わいながら、おなかの子どもに声をかけ、生まれてくることを楽しみにしていました。胎内で順調に育たず、不安の中での出産でした。産声の小さな赤ちゃん。すぐに保育器に入りました。1580グラムと未熟児でした。うれしさよりも不安が大きかったのですが、ミルクをたくさん飲んで大きくなると信じていました。

 育児は非常に難しく、日々焦ったものでした。成長は遅く歩きも順調でなく、体調の変化が多く、通院や訓練の毎日。子ども「友美」から目を離すことができない生活でした。やがて「障害」を受容しなければならない時がきました。「目が覚めたら夢であってくれたら」と思った夜は明け、現実を突きつけられます。

 地域の保育園で、専任保育士さんと保育園生活も始めましたが、やはり周りの子どもさんにはついていけない状況を見て、障害児の通園施設に通うことになりました。

 友美はとにかく感染症にかかりやすく、肺炎を繰り返しました。入院になると私も付き添いで病院に泊まりました。友美が9歳になった時に生まれた弟も低体重児でした。わが家は2人の障害児を授かることになりました。この事実を認めがたい自分でした。2人の障害児を育てる大変な生活が続く中、友美だけでも入所施設にお願いしようと決めました。

 友美は重篤な肺炎にかかり、一晩で背骨にまで達する褥瘡じょくそうができて、褥瘡が治るまでに2年ほどかかりました。弟「昌彦」の小学校入学式の日。友美の心臓が止まったとの連絡をもらい、すぐ施設に行きましたが、心肺蘇生で戻ってきてくれました。人工呼吸器につながれ、青白く眠り続ける友美でした。生きようと頑張った姿は、今もなお目に焼き付いています。

 生きること、生きる力は障害があろうとも関係なく、友美は親や施設の職員に「生きる」と伝えながら頑張りました。心肺蘇生から3日間友美は闘いましたが、15歳で私の成人式の晴れ着を着て旅立ちました。元気で成人式を迎えられなかった友美への、親の気持ちでした。

 友美の人生はつらいことだけしかなかった気がします。でも弟と一緒に遊び、家族と出かけ、私たちの家族として生活できたことが、ただ一つの安らいだ時間でした。今の私の生活の指針となるのは、友美の病気と闘った姿です。障害があっても生きる姿を親に見せて、今もなお光を放ち、私たち親子を照らし続けています。

 子どもの虐待や殺傷といった事件を聞く度に、「どうして、何で」と信じられない気持ちです。友美が残してくれた「生きることの大切さ」を伝え続けていきます。これが亡くなった友美が残してくれた使命と感じています。



県手をつなぐ育成会会長 江村恵子 高崎市新町

 【略歴】群馬銀行や藤岡保健福祉事務所内の障害者相談支援センター勤務を経て2017年から現職。全国手をつなぐ育成会理事。渋川市出身。明和高卒。

2021/01/06掲載

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