銅山とあかがね街道 幕政下の群馬知る糸口
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 江戸時代の足尾銅山は一貫して幕府の直営でした。ただし、銅山の所有者となれば、少し話は違います。初期段階は日光東照宮の下、つまり徳川将軍家と関わりの深かった天海大僧正の支配下にあったのです。天海が没した後、1648(慶安元)年に幕府は銅山を所有、翌年には利根川の河岸まで銅を運ぶ経路を定めました。これが、あかがね街道です。

 銅の輸送には、街道筋の農村から人馬が動員されました。馬の背に銅を載せて、5カ所(当初は4カ所)の宿駅をリレー式に運んだのです。まずは渡良瀬川沿いの山中を南下、続いて大間々扇状地(笠懸野)の平野部を進み、伊勢崎市境地区(後に太田市尾島地区)が終点でした。なお、河岸からは船で江戸(浅草)まで運びました。

 街道の終点に近い太田市世良田地区に東照宮があります。日光東照宮が今の豪華な姿に建て替えられた後、天海は当地で徳川氏ゆかりの長楽寺を再興、日光からここへ旧社殿が移築されたのです。だから街道は単に利根川へ向かう経路ということでなく、天海ゆかりの足尾銅山の銅瓦(推定)の下で祭られている家康公に江戸へ運ぶ銅をご覧いただく、という意味があったのではないかと思います。

 17世紀後半、銅山は江戸時代における最盛期を迎えました。当時、20年にわたって銅山奉行を務めたのが、笠懸野の開発で知られる岡上景能です。岡上は銅の輸送を改善するため、街道を改良整備、太田市藪塚本町地区に宿駅を追加しました。

 徳川将軍家が新田氏一族を先祖とし、旧新田郡一帯が幕府とのつながりから地域の存在価値を高めていったと見るならば、幕府の直営で生産されていた足尾の銅はそれに一役買っていたとも見られます。銅山とあかがね街道は、幕政下の群馬との関わりで、もっと注目されてよいのではないかと感じています。

 道路ははるか昔から今日に至るまで、人々の生活に欠かせない公共財産で、日々、人や物の移動に使われています。足尾の銅を運んだ経路も、元々は住民の生活道路でした。街道は足尾をたつとすぐに群馬へ入りますので、銅を運んだ人、道路を保全した人の多くは本県の先人です。

 かつての街道は現在の国道122号、県道大間々世良田線などに相当します。たくさんの自動車が行き交う現況から、人馬で銅を運んでいた往時の姿は容易に想像できません。ただ、時は流れて沿道の風景は変わっても、私たちが見ている赤城山や浅間山、渡良瀬川などは、昔の人が見た姿と同じなのでしょう。

 銅山の歴史を知れば、身近な道路からも、時代を超えた人の営みに気づくことができます。住民の生活と地域の産業を支え続けている、全ての輸送関係者、土木関係者に感謝したいと思います。



元足尾を語る会会員 坂本寛明(太田市)

 【略歴】さかもと・ひろあき 幼いころ足尾銅山の壮大な世界に魅了され、足尾を語る会などで銅山の歴史を伝える活動を行う。2019年11月に「何かの役に立つ足尾銅山の話」を出版。

 2021/1/20掲載

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