山伏の師を弔う 憧れた姿と作法継いで
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 「なぜ山伏になったのですか?」。私が一番よく聞かれる質問です。若くしかも女性がとなると世間がもつ山伏のイメージとは正反対かもしれません。

 なぜ、便利な現代に生まれ育った私が今から約1300年前に開かれた長い歴史をもつ修験道という宗派の門を18歳でたたいたのか。なぜ、険しい山中で厳しい行をこなす山伏にひかれたのか。

 私の実家は明治時代まで、今副住職を務めている大福院と同じ本山派山伏のお寺でした。しかし、廃仏毀釈きしゃく運動や修験道廃止令のあおりで廃寺となってしまいました。

 私の実家と大福院は同等の末寺として支え合っていました。跡継ぎがいない時は、互いの子息子女を養子にし、お寺が絶えないようにするいわゆる「くれっ子もらいっ子」をする関係でした。互いを補い合いながら時代を生き抜き、共に助け合う深い仲のお寺同士でした。

 元々、このように山伏とはご縁がありました。しかし、決定的なターニングポイントは高校生の時に参列した親族の葬儀でのことです。

 私は黒い衣を着たお坊さんが来てお経をあげてくれるのだと思っていました。しかし、葬儀場に現れたのは黄色い鈴懸をまとい、修験道専用の結袈裟ゆいげさを身に着けた大福院の住職でした。なんて神秘的なんだろうか。山伏姿にくぎ付けになってしまいました。姿だけではありません。法螺貝ほらがいの音が会場に響き、葬儀は群馬の山伏に伝わる伝統的な作法で行われました。

 この日の山伏の神秘的な雰囲気や作法に圧倒され、自分も山伏になりたいと強く考えるようになりました。その後住職の紹介で大福院の跡継ぎとして京都・総本山聖護院門跡の学僧に入寮し、2年間修行させていただきました。

 さて、私に山伏とのご縁を結んでくださった住職が昨年12月上旬に逝去いたしました。愛別離苦とはまさにこのことかと痛感、悲嘆しました。弟子として、師匠から教わった葬儀作法を用いて師匠の葬儀を執り行い、山伏を山伏のやり方で弔うことができました。

 当時高校生だった私が憧れた、山伏の姿。今度は自分が同じ鈴懸を着て、あの日師匠が行っていた葬儀作法を継承したのです。火葬場では最後に法螺貝を吹き、山伏らしく法螺の音で師匠を送り出しました。

 新型コロナウイルスで葬儀の仕方も大勢が集まるものから家族葬や密葬へ変わりつつあります。しかし、形式が変わったとしても、人が故人を弔う気持ちは変わらないのです。

 弟子が師匠を思う気持ち、人が誰かを思う気持ち。これは時代が変わってもコロナウイルスによる新生活様式に人々の暮らしが変わったとしても、人間の真心として不変の真理ではないでしょうか。



大福院僧侶 小野関隆香 榛東村広馬場

 【略歴】県内最年少の女性山伏。京都の聖護院で2017年から2年間修験道を学び、19年4月に大福院(榛東村)の次期住職に。法話会で山伏の文化を伝えている。

2021/01/22掲載

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