あるボートピープル 桐女で重ねた努力開花
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 今から40年以上前のことです。社会主義の国となったベトナムから自由を求め、110万人とも言われるボートピープルが祖国から脱出しました。多くはアメリカに、そしてオーストラリア、ヨーロッパに定住先を見つけました。しかし逃避行中にかなりの犠牲者が出たことも事実です。日本も、1979年から80年代の約10年間に1万2000人のインドシナ難民(ベトナムを含むラオス、カンボジアの仏領インドシナ)の定住受け入れを認めました。

 79年11月21日、桐生市の相生中3年1組(担任・久保田譲先生)にトランゴクランさんの姿がありました。初めて教室に入ったときに43人の温かいまなざしと、黒板に書かれた「歓迎」の文字。中国系ベトナム人だったので、意味を理解できました。

 たどたどしい日本語で桐生の中学生に交じり必死に学びました。来日前に覚えた日本語は「ありがとう」。そして2人の兄の待つ「グンマケン キリュウシ アイオイチョウ…」。何度も何度も反すうして暗記した地名です。

 ランさん家族はボートピープルでした。父母と別々に祖国からの脱出を図りました。難民を乗せた小さな漁船で大海原を約30日間余り、漂うように香港に到着して助けられました。海の藻くずと消えた友人たちや小さな生命、母親たちの悲惨な姿、逃れられない苦しい船酔い、そして死と対峙(たいじ)した日々を経て、香港の難民キャンプで数カ月を過ごし、日本に定住が認められ、その1カ月後には相生中生になれたのでした。

 ランさんたちを桐生で待っていた2人の兄は、日本に留学中に母国が紛争に巻き込まれたため、帰国できず小倉クラッチに就職しました。会社も心を込めて家族を受け入れるお世話をしてくださいました。6畳と4畳半に8人家族がようやく集合できたのです。

 ランさんはいよいよ高校受験。「日本人だって不合格の人がいるんだし、自分だけが特別なんて甘すぎる。他人に認めてもらえるようになるには懸命に努力し、恥ずかしくない実力をつけること。難民という立場に甘えないこと」と、懸命な努力の結果、桐生女子高に合格しました。最下位で入試に合格し、トップの成績で卒業したと、私はうわさで聞きましたが、たぶん間違っていないでしょう。

 医師となり日本国籍も取得し、現在は関西で小児科医として地域医療に貢献しています。ボートで脱出した兄2人は働きながら群馬大短大、筑波大で学び、IBMに就職し、その後1人はIT企業を立ち上げ活躍しています。

 私は彼女たちの応援団長を自認しています。みんな「難民を助ける会」の奨学金給付生でした。「桐女」は「桐高」に生まれ変わるのでしたね。こんな先輩もいたことを誇りに思ってください。



認定NPO法人難民を助ける会会長 柳瀬房子(東京都渋谷区)

 【略歴】やなせ・ふさこ 1976年に前身団体設立メンバーとなり、理事長を経て現職。法務省の専門部会委員を務め、現在は難民審査参与員。東京都出身。青山学院大大学院修了。

 2021/1/26掲載

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