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自分が何をすれば良いか分からない、と困っている人は若者に限らず多いと思う。僕もずっと無気力で悶々(もんもん)とした10代を過ごした。さらに今は当時と比べてもより未来が不確かで、情報だけがやたらと多い。そんな中にあって大切なことは、自分の「内的必然性」と向き合うことではないかと思っている。
この難しい言葉を日本映画学校の担任だった安岡卓治さんから聞いた。オウム真理教の内外を描いたドキュメンタリー『A』や、戦争・震災に関するドキュメンタリーのプロデューサーでもある。
ひきこもりのような10代後半、近くのビデオショップで映画をレンタルして見ることにハマり、両親に無理を言って日本映画学校へ入学した。意気揚々と「映画を作るぞ!」と思ったのもつかの間、課題に出た原稿用紙200枚のシナリオ実習。物語を書こうと思っても実体験が乏しいので薄っぺらな物語しか浮かばない。そんな時に、実際にいる人や起こったことから映画を作れるドキュメンタリーに魅力を感じるようになる。
「君たちは学生で、商業映画を作るわけじゃない。ならばとことん内的必然性と向き合ってみるべきだ。誰がなんと言おうと自分はこれを映画にしなければならない、というテーマを見つけなさい」。そんなことを安岡さんに言われた気がする。自分は何に関心があって、何に悩んでいて、何を形にしたいのか…。
僕は、僕と同じように社会となじめない若者たち、ひきこもりを経て少し外に出られるようになった若者、家を離れ山の中で農業中心の共同生活を送る若者たちを取材するようになる。人と向き合うこと、さらにカメラを向けることはとても難しい。
「あなたは何が撮りたいのか分からない」と対象者にしかられて、泣いたこともあった。意見を言い合って、仲間と徹夜で編集作業をした夜もあった。今思えばそれは、人間関係が希薄だった僕自身の「生き直し」であったようにも思う。
いい経験をしてもいい映画にはならないのがドキュメンタリーの難しさ。僕が作った作品はひどい出来だった。けれど卒業制作上映会後、トイレで隣になった当時の学長で映画評論家の佐藤忠男さんから掛けてもらった「君はいい作品は作れなかったかもしれないが、見込みがあるから頑張りなさい」という言葉は、今も励みになっている。
それら実体験から、若い時に必要なことは「自分がしたいことを見つけ、その第一線の実践者に会い、失敗すること、評価を受けること」なのではないかと思う。それは難しいとしても、内的必然性と向き合うこと、誰がなんと言おうと自分はこれをしなければならない、と思えることを探す行為は、いくつになってもし続けるべきだと思っている。