心を巡る冒険 言葉を重ね互いを理解
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 心とは何だろう。若い頃から心について興味を抱いてきた。教師になってさまざまな生徒と関わったり、大学院で脳の研究をしてみたり、小説を読み書きしてみたり、心への興味に駆り立てられながら、僕は今まで「心を巡る冒険」のようなものをしてきた気がする。

 その冒険の中で一つ分かったことがある。それは「言葉」の大切さだ。言葉は自分の心を伝えるものであり、伝えることで自分の心を改めて知ることができる。また、人から言葉を受け取ることでその人の心を知ることができる。ただ、知ることができるのは、あくまでその一部だ。

 心と言葉との距離は、関数の極限のようなものではないかと思う。言葉をどれだけ多く重ねようと、その距離は限りなくゼロに近づくだけで、なくなりはしない。ただ僕は、それが大事なのだと思う。

 〈完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね〉。これは村上春樹氏の『風の歌を聴け』という小説に出てくる言葉だ。これを読んだ当時はその意味がよく分からなかったが、今は自分なりにこう理解している。つまり、まだ文章や言葉にできない心の内があるということは、そこには必ず希望や救いがあるということなのだ。

 例えば、誰かが「死にたい」「つらい」と言うとする。その言葉がその人の心の全てならば、そこには絶望しかないが、決してそうではない。そこには必ず「死にたくない」「乗り越えたい」など他の気持ちが隠れているはずだ。だからこそ僕らは、たとえそれらが不完全なものであっても、いくつもの言葉を重ねる。心の全てを知ることはできなくても、その本当の姿に少しでも近づくために。

 僕は時々、話すことができなくなってしまった緘黙(かんもく)の子どもに出会う。では、言葉を交わせないその子と理解し合えないかといえば、決してそうではない。相手からの言葉はなくても、表情やしぐさを何となく感じ取ることができる。そして、その感じ取ったことを言葉でその子に伝えてみる。たとえ言葉が返ってこなくても、その子とのやりとりの中には、必ずお互いの心が存在している。

 カズオ・イシグロ氏の小説『クララとお日さま』の中で、病にかかった子どものコピーとなる宿命のAIは、その親に、心まではコピーできないと告げる。どうやら、AIにとっても心を巡る冒険は、関数の極限のようなものらしい。そんなことが、僕をまた冒険へと駆り立てる。

 1年間、この「視点」を担当させていただいたことは、僕の冒険の中の本当にすてきな出来事だった。ご意見や感想を寄せてくださった方に心から感謝を申し上げたい。もしどこかでお会いできたら、その時は一緒に交わしませんか。たくさんの言葉を。





高崎高教諭(通級指導担当) 佐藤利正

 【略歴】特別支援学校や普通高校に勤務し、2019年から現職。生徒支援の経験を基にした小説で上毛文学賞、県文学賞受賞。群馬大大学院博士課程修了。博士(医学)。

2021/10/23掲載

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
関連記事