中居屋重兵衛 群馬県人 横浜の礎築く
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 横浜市中区本町に「生糸貿易商中居屋重兵衛店跡」とメモリアルがある。店名の中居屋重兵衛(1820~61年)は嬬恋村出身である。横浜開港の功労者と呼ばれ、横浜市から横浜開港100周年記念式などで感謝状が届く。中居屋重兵衛の縁で横浜市中区と嬬恋村は友好交流協定を結んでいる。

 群馬県は絹産業が盛んである。2014年6月に「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録された。開国した日本は技術の輸入に努め、1872(明治5)年に富岡製糸場が造られ、国中の製糸業が近代化した。

 富岡製糸場ができる以前の生糸産業に関わる先駆的な人物として中居屋重兵衛がいる。横浜は59(安政6)年に開港され、貿易が開始されると生糸を中心に茶、絹織物などの取引が盛んに行われ、日本最大の生糸輸出港として発展した。日本は、生糸輸出から得られた収益によって富国強兵政策を進め、近代化を成し遂げた。

 生糸貿易は日本経済に大きな影響を与え続けた。この横浜開港に際し、いち早く出店したのが群馬県人、中居屋重兵衛である。

 中居屋重兵衛は20(文政3)年に嬬恋村三原(中居村)で生まれた。20歳で江戸に出て親戚に当たる日本橋の書店和泉屋に身を寄せた。儒学、蘭学、製薬、剣術など文武の道に励み、外国に勝るとも劣らない火薬づくりに成功した。54(安政元)年には、日本橋に店舗を構え、『子供教草(おしえぐさ)』を出版した。この本で「利をもって利となさず、義をもって利となす」と説き、これを生涯の生きざまとした。その他の著書に『集要砲薬新書』がある。

 横浜本町にあった中居屋重兵衛の店は間口30間のひときわ豪華な2階建て。屋根を銅瓦で葺(ふ)いたことから銅(あかがね)御殿と呼ばれた。生糸をはじめとする輸出品を外国商に売り、世界に日本の品質の良さを広めた。日本の生糸に目を付けて、いち早く外国に輸出した。その先験的な目の付け方は優れていた。

 中居屋には、群馬はもとより全国各地の商人が生糸を持ち込み、多くの外国人が生糸買い付けに訪れた。開港直後のすべての輸出生糸のうち、約5割を中居屋が扱った。横浜開港第一の功労者であり、地元群馬の生糸産業の基礎を作った。

 62(文久2)年に刊行された『横浜開港見聞誌』に豪商中居屋の隆盛が明記されている。明治時代になると、その事業は多くの生糸貿易商に引き継がれた。横浜は日本最大の貿易都市になっていく。

 時代が劇的に変化する明治維新の頃、「利をもって利となさず、義をもって利となす」をモットーに先を読み取り、歴史を動かすほど活躍した中居屋重兵衛の業績は極めて大きい。群馬県人の誇りにしたい。



嬬恋村高山蝶を守る会会長、中居屋重兵衛顕彰会副会長 宮崎光男 嬬恋村鎌原

 【略歴】嬬恋田代小校長を2015年に退職後、16年4月から守る会会長。嬬恋郷土資料館友の会副会長、中居屋重兵衛顕彰会副会長。群馬大教育学部卒。

2018/06/08掲載

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