集団学童疎開と草津 思い出を共有できたら
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 6年生の時、あなたはどこで何をしていましたか。

 1944年8月、太平洋戦争末期、東京から約2万600人もの児童と教師、関係者が戦禍を逃れ本県に避難してきました。集団学童疎開と言われ、大都市圏に暮らす子どもたちを空襲等から守るため、地方に避難させることを目的としていました。

 国民学校初等科3年から6年までの児童が家族と別れ、学校単位などの集団で草津、伊香保、四万といった温泉地の旅館、寺院、個人宅など325カ所で集団生活を行いました。このことは、疎開期間が短かったことや疎開の場所が限られていたこともあって、本県の歴史の中にわずかに記録されているのみです。

 草津には東京都淀橋区(現在の新宿区)内の7カ所の学校から3500人の児童が疎開しました。町内74軒の宿が彼らを受け入れています。疎開期間は終戦までの約1年。その間、子どもたちは家族と離れた寂しさやつらさ、家族が空襲に巻き込まれていないかの心配や不安、空腹やいじめ、寒さや慣れない土地での生活など、小学生の体験としては現在では考えられないほどの苦境を味わったに違いありません。子どもを引率していた教師も途中で戦地に召集されたりもしたようです。

 一方で温泉は当時も豊富にあって、子どもたちも入浴していました。受け入れた旅館の人たちが優しくしてくれ、スキーを教えてくれたり、草津の歴史を話してくれたこともあったようです。草津でも働き手は戦地へと召集されているような状況で、町民も不安や恐怖を感じる毎日を送っていたでしょう。

 終戦を迎え、疎開児童たちは東京へと戻りました。草津にはこれからどうしていくかという不安と静けさだけが残りましたが、温泉祭の開催やスキーリフトの新設などを行い、戦後草津の発展のスタートを切っていきます。

 現在の草津は、そんな時代の面影を残してはいません。しかし、かつての疎開児童は自分たちが過ごしたわずか1年を振り返るために草津の地を訪れます。ある人は家族を連れ、またある人は70年ぶりの訪問だと感慨深げに言いながら。彼らにとって、小学校のわずか1年が鮮烈な思い出となって一生残っています。

 草津以外の疎開を受け入れた場所でも同じだと思います。温泉街を懐かしそうに歩いている人の中には、疎開の時間を思い起こしている人が必ずいるはずです。そんな人たちへ当時のことを話したり、泊まった宿の案内ができたら、つかの間70年前の小学生時代に戻るお手伝いができるのではないでしょうか。確かに、空腹や心細さといった思い出のほうが勝るかも知れません。しかし、私たちが何も知らず「昔のことですからね…」で片付けてしまっては、つらい思い出だけが強く残るだけのような気がします。



草津町教委学校教育係長 中沢孝之 草津町草津

 【略歴】草津町役場に入り、町温泉図書館司書などを務める。全国組織の図書館問題研究会で活動。郷土史やハンセン病についても関心が深い。和光大人文学部卒。

2018/07/14掲載

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