多胡碑の文字 当初のものから変形
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 多胡碑の碑文は日本三古碑と並び称される那須国造碑、多賀城碑と比べても威風堂々としていて、これぞ石碑という感がある。その特徴の一つに、文字が大きく刻まれていることが挙げられる。

 多胡碑の石材である多胡石(牛伏砂岩)は加工がしやすい砂岩であり、比較的軟らかいために摩耗し、画数の多い字を小さく刻もうとしたとき、字画が集中する場所で欠損を生じてしまう。また、その生成過程で水酸化鉄の集合層が赤茶色のしま模様となって入り込み、硬い筋となっている。このため、しま模様を避けて、あまり影響を与えないところで交わるようにして彫っている。このように、文字を大きく刻んだ理由は多胡碑の石質に原因があるのだ。

 それともう一つ、多胡碑の果たした役割である。碑文には、三つの郡から土地と人民を割いて新たに多胡郡を建郡し、それを政府公認の羊に任せたことが記されている。前沢和之氏が指摘しているように、役所の傍らに人々を集めて、碑を前にして、羊が読んで聞かせ、説明したことも考えられる。碑から離れた後ろの方で聞いている人たちにもわかるように、大きな文字で書く必要があったのだろう。

 さらに、碑文を観察すると、下半部に摩滅や損傷で不鮮明になった部分があり、後世に彫り加えた刻線が認められるものもある。それに対して、笠石の下にあたるところなどの上半部には、細身の文字が多く、当初の彫り跡が残っている。笠石を載せる中国等の碑のごとく、多胡碑も下部の文字に傷みが認められるものがあり、笠石によって碑文が辛うじて守られてきたことがわかる。われわれの家の軒と同様に雨の吹き込みを防ぐ役目を果たしている。多胡碑の石質から考えて、笠石を載せる必要があった。多胡碑の特徴とみられた太めの文字は、風化や摩滅、後世の削りなどによって、当初のものが変形した結果だったのだ。

 このような仲川恭司氏の指摘は、これまでの研究の多くが、多胡碑の現状をほぼ当初のものとする前提で進められてきたことから、画期的な指摘と高く評価されている。

 この多胡碑の書風についての研究は、実際に碑を見ずして拓影で評価することの限界を示していて、碑そのものを観察することの大切さを教えてくれている。

 そして、最近では、多くの拓本を比較し、個々の文字の変化からその新旧を捉えられるようになった。しかしながら、碑面の二次的な変化が大きく認められる現状に近い拓本が多く流布しており、当初のものに近い形状の拓本にお目にかかることはまずない。

 そこで、ユネスコ「世界の記憶」登録1周年を記念して、多胡碑の拓本を県内外から広く集めて、一堂に会するような催しを企画してみるのも、時宜を得たもので、意義のあることではないだろうか。



一般財団法人群馬地域文化振興会常務理事 松田猛 高崎市上里見町

 【略歴】県教委文化財保護課で埋蔵文化財や史跡を担当、県史編さん室で通史編2を編集した。小中学校の教諭も務め、高崎多胡小校長で退職。群馬大教育学部卒。

2018/08/02掲載

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