亡き父と2度の空襲 命の重さかみしめる夏

 今年も8月15日が過ぎた。1952年生まれの私だが「戦後」の記憶は多くない。幼い頃に暮らした藤岡市で、官舎の近くに大きな瓦製造会社があり、職人さんの中におそらく戦禍で片足を失った方がいた。大きいだるま釜や土を運んでいた栗毛(くりげ)の馬、整然と並べて干された瓦と赤銅色の長い足、断片的だが色彩と音声を伴った映像がよみがえってくる。

 警察官だった父の転勤で63年に東京都新宿区に引っ越した際、新宿駅西口付近は「傷痍(しょうい)軍人」と呼ばれた人たちがアコーディオンなどを奏でていた。白い服をまとい戦闘帽をかぶり足元には缶のようなものが置かれていたと思う。

 転校5回目を数え、世の中の複雑さを感じ始めた頃の、文字どおり曖昧な記憶である。体の一部を失って戦地から戻った人もいれば、終戦直前、また前日の空襲で家や命を失った人もいた。

 45年8月5日、米軍は前橋市へ92機のB29による空襲を行った。焼夷(しょうい)弾、破砕弾の量は700トンを超え、死者535人負傷者6000人、市街地の80%は破壊されたという。警察学校生徒だった父は5カ月前の3月10日、東京大空襲のさなかに、少年警察官として警視庁に宿直していたため死を免れたが、下宿先は灰燼(かいじん)に帰していたそうだ。上司から促され両親が疎開していた群馬に来て再び大惨禍に遭ったわけだ。

 教官から巡回を命ぜられた父たちは数人ずつ歩くうち、女性の悲鳴で駆けつけた家の天井に燃え移った火を、敷地内の池から水をくみバケツリレーで消しとめた。着ていた柔道着はすすで真っ黒に。翌日、旧群馬町から長男の骨を拾う覚悟で歩いてきた両親が見たのは柔道着をごしごしと洗う息子の姿だった。

 三十数年の時を経て県警防犯部長職についた父は前橋市大手町の官舎すぐ近くの家に「どうも見覚えがある…」と言い出す。そのお宅は母の同期生宅(母は県警婦人警察官1期生)なのだ。池もあり、当時、父が消火の際に乗った梁(はり)もあった。間違いなく同じ家だと判明した。暗闇の中に響いた悲鳴は母の同期生と妹さんのものだった。事実が確認できた十数年後、私が始めた活動に姉妹そろって理解してくださり、励ましをいただいてきたのである。

 2004年、アーチの会10周年にささやかなイベントを協力者の支えを得て実施できた。昼間の会場はJR伊勢崎駅前の赤レンガ倉庫をお借りした。終戦前夜の米軍B29による空襲で焼失しなかったが、駅前再開発工事のため現在はなくなっている。建物が伝える歴史があったのにと残念な気持ちが今も胸にある。

 父は東京、前橋と2度の空襲で命を失わず母と出会い、兄と私の命を作ってくれた。強く深く命の大切さをかみしめる8月なのだ。



心身障害児者生活支援NPO法人アーチの会代表 安芸みどり 伊勢崎市今泉町

 【略歴】1994年にアーチの会を立ち上げ、障害児向け学童クラブを始め、2000年にNPO法人化。伊勢崎市障害児者親の会ネットワーク事務局。日本大卒。

2018/08/31掲載

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