利根の変流(県庁以南) 古代に基本流路存在か

 古利根川の流路の変遷における最大のイベントとして、前橋旧市街を1キロ以上の幅で東南に流れていた利根川が中世において群馬県庁西脇の現在の流路に変流したことが挙げられます。この変流について明治期以来、原因と時期について諸説が発表されています。

 私の研究では①先行河川(諸研究では車川と呼称)が存在し、県庁以南と以北に分けられ、以南については古代に基本流路が存在していた②変流のきっかけは応永の洪水(1427年)に始まり、その後の洪水および利根川上流の流路の変更が加わり100年以上の経過で変流が完成した―と考えています。まだ仮説の段階ですが、県庁以南の流路の起点は臨江閣西側付近にあり、古利根川の東南流部の西端から南西方向に向かって流れていたと考えています。

 古墳時代から始まる開発として古利根川より導水し、現利根川を越え南西に流れる流路が複数本あったことが関口功一氏により指摘されており、推定先行河川(車川)はこれらの古代用水路の最西の流路をとったと考えています。古利根川からの用水路に榛名山水系よりの用水路、自然河川が接合し当初はジグザグの流路として流れていましたが、次第に現在の南流路になったと考えられます。

 県庁北西部の前橋公園は複雑な地形を呈しており、柳原の土手が広瀬川の南岸に位置し、この土手以南の広場(旧競輪場)と幸の池が低地帯となっています。なぜ柳原の土手以南が低地帯となっているかについては利根川の東への陥入によるとする説もありますが、私の研究では中世末期の厩(うまや)橋城図では利根川はこの位置になく、現在の利根川に近い位置を南流しています。

 低地部には虎が渕という沼が存在し、厩橋城の西北部の外堀となっています。江戸期前橋城の北堀である虎が渕(現るなぱあく)は厩橋城図の位置より北西に移動しており、新たに開削された堀と考えられます。この低地部は江戸初期より「前代田」と呼ばれており、代田とは低湿地を意味する地形地名で以前低湿地であったという意味で前代田と呼ばれたと考えています。過去に虎が渕沼北西部分を車川が流れており、中世に柳原の土手により流路が遮断され低地帯として残されたと思われます。

 柳原の土手の目的は風呂川により前橋台地に送水するため、この低地部を乗り越える一種の水道橋を造ることであったと考えます。さらに関口功一氏説を参考にすれば車川に北西から流入する王山古墳に関連し開発された用水路が複数存在していたと考えられます。これらの水路のひとつに利根川本流が流入し、位南の水路が現利根川となっていったと考えます。

 次回に県庁以北の利根川の変流についてお話ししたいと思います。




内科医 小野久米夫 前橋市日吉町

 【略歴】内科医の傍ら、独自に地形について研究。2017年6月、利根川流路の変遷を紹介する市民講座「群大版ブラタモリ」を開いた。群馬大医学部卒。

2018/09/05掲載

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