「外国人問題」を考える 求められる当事者意識
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 「外国人問題」に取り組んでいる者として、現在の外国人問題のあり方について論じていきたい。

 外国人問題は、国家として向き合うマクロ的問題と、地域社会として向き合うミクロ的問題の二重構造であるのだが、現状の議論について、両者を有機的に関連づける動きは乏しい。

 これまでの外国人問題への対応の経緯をみると、国の施策遂行にあたり、外国人市民が居住する「現場」ともいえる地域社会に、ごみや騒音といった今なお、残る古典的な問題から、宗教や知能的犯罪といった現代性を有する問題に至るさまざまな問題がおきた。現場での対応が表面的なものであったことで、実質的な解消の動きを見せることなく、その表面性を通じて、常態化して認容されてしまったり、あるいは、潜在化していった。

 その表面性について、危惧する事象を以下に述べていきたい。東京オリンピック・パラリンピックを2年後に控え、昨今、国民の認知度も著しく向上するパラスポーツや、自民党・杉田水脈議員の言論誌における、LGBTに「生産性」がないとする主張が大きな波紋を呼んだことなど、障がい者や性的マイノリティーについての関心が高まっていく傾向については、好ましいのである。しかし一方で、障がい者やLGBTと、「外国人」とを、多様性(ダイバーシティー)の中に、同化して組み入れることについては、疑問を感じ、危惧を禁じ得ない。

 たとえば、外国人を扱う担当部署が、「国際課」「国際交流課」といった明確な名称でなく、「交流推進課」や「多文化協働課」といった名称が用いられている、一部の自治体で見受けられる事象に、外国人問題の本質への忌避を感じるといったら過言だろうか。

 杉田議員の主張への糾弾の端緒は、おおよそ経済学的な視点といえる生産性と人権との議論を並立させようとしたことで、そのロジックに限界が生じたのである。外国人問題は、国家においても、地域社会においても、外国人に求められるのが、労働力と消費という実情からも、経済的問題の一面を、まず、捉えるべきである。この点においては「人権的問題」と切り離した議論が必要であるといえる。当然のことながら、人権は尊重されるべきであるが、過度な人権意識の高揚が、社会の健全な自律性を毀損(きそん)し、市民に不幸が共有されるようでは、あってはならない。

 安倍政権が、外国人の受け入れに大きくかじを切った今、事後的・なし崩し的に、外国人問題が地域社会で深刻化しないよう、この問題への国民の当事者意識が強く求められる。



移民問題総合研究所代表理事 神谷大輔 太田市牛沢町

 【略歴】建設会社勤務を経て、南米に語学留学。200年行政書士登録。大泉町で開業、主に入国在留手続きを取り扱う。太田高―新潟大経済学部卒。

2018/11/29掲載

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