「真のメディアの姿」いまだネット称賛続く地方局アナ、震災報道でキー局に怒鳴った理由語る
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 毎年春になると、ネット上で話題になるアナウンサーがいる。岩手朝日テレビの山田理さんだ。東日本大震災直後のニュースにて、津波の接近に気づかないテレビ朝日にデスクを叩き怒鳴りの声を上げ、中継がつながるとすぐに冷静に現場の情報を伝えた。その姿に、9年経った今も称賛の声が相次いでいる。今年も3月11日前後には、「これこそ真のメディアの姿」というつぶやきに14万近くのいいねがつき、「アナウンサーの鑑」「何度見ても鳥肌が立つ」「涙が出た」などのコメントが寄せられた。改めて当時の様子から震災報道への想い、さらに様々な物議を醸している新型コロナウイルスの報道に対する意見などを山田さんに伺った。

【写真】「一時は報道を辞めたいと思った」彼を救った菊池雄星投手を取材する山田さん

■放送中の記憶がなく、特番を見て怒鳴っている自分を見て「言葉を失った」

 山田さんが画面を通して「なんでここでその状況を伝えているんですか!いま来てますよ、津波が!いま到達してるよ、テレビ朝日!!」と怒鳴ったシーン。震災直後のニュースでは放送されておらず、一連の様子はその年の4月のANN報道特番『つながろう!ニッポン』で報道の舞台裏として放送された。彼はその年のANNアナウンサー賞大賞を受賞したが、実は「怒鳴ったことは覚えていない」という。5年前に社内異動があり、現在は営業職の山田理(さとる)さんが、当時の様子を初めてロングインタビューで語ってくれた。

――アナウンサーを目指したきっかけを教えてください。

【山田理】元々はテレビ制作がしたくて総合職を目指していて、当時はアナウンス試験を受ける人は凄いなーなんて思っていました。青森の大学に通っていたので、最初は青森ケーブルテレビで制作をしていました。そこでディレクターの先輩に「山田は話すの上手いからリポーターやってくれないか」と声を掛けられ、アイスホッケーやママさんバレーの実況をやるようになったんです。そこから話す仕事に興味を持ち、地元のテレビ局のアナウンサーを受けることにしました。

――やはり地元で働きたいという思いが強くあったのでしょうか。

【山田理】そうですね。盛岡で生まれて18年間住んでいたので、いつかは何らかの形で地元に貢献したいという気持ちが大きかったです。あと、弊社のアナウンサーは地元出身者が少なかったので、盛岡出身の自分だからこそできることがあるのではないかと思い、入社しました。

――2011年のANN報道特番では、山田さんが一刻も早くこの津波の状況を伝えなければいけないと心から叫ばれている姿が印象的でした。実際には放送されていない部分が特番で公開されることに対してはどのような思いがありましたか。

【山田理】正直驚きました。実は、放送中の記憶があまりないんです。とにかく必死で。特番のVTRを見て、言葉を失いました。小さい地方局がキー局のテレビ朝日に何を文句言っているんだっていう話ですよね。「本当にすみませんでした」という思いでした。

――それでも9年経った今でも、あの時の山田さんの対応が語り継がれています。特番放送当時の反響はいかがでしたか。

【山田理】実は、放送直後はそんなに反響はなかったんです。当時は、「あれでよかったのか?」「あの放送をしたからといって命を救えたのか?」と悶々と考えたりしていました。後輩からネットでの反響を聞いても見ないようにしていて、あの部分だけ切り取られても決して褒められることではないという思いはすごくありましたね。

■「誰もちゃんと想定ができていなかった」決してテレ朝の対応が悪かったわけではない

――改めて、震災直後に緊急ニュースが放送された当時の状況を教えていただけますか。

【山田理】あの時、地震によって東北各地の情報カメラが停電で動かなくなったんです。唯一動いていたのが、岩手県宮古市のカメラだった。でも、あのような大地震が起きると、緊急特番になってローカル放送はできなくなる。岩手県内の皆さんに伝えたい情報があっても、こちらで放送内容をコントロールすることはできないんです。

――そんな中、津波が宮古市沿岸に今まさに押し寄せている映像に覆いかぶさるように、津波到達予想時刻を知らせるテロップが乗っていたんですよね。

【山田理】映像を見ていて、さきほど6メートルを観測した津波に次ぐ第2波だと気づきました。しかし、当然のことなのですが、その時テレビ朝日は情報収集のために各所と連絡をとっていて、電話もインカムも混線しており、それに気づいていなかった。思い返してみると、そんな中で、僕のマイクなら誰か聞いてくれているのでは!?と思って叫んだような気がします。

――それで、山田さんの声に気づいたテレビ朝日がすぐに中継を繋いでくれた?

【山田理】いえ、正確には私の映像をチェックしていたテレビ朝日のデスクが怒鳴ってくれたことで、中継がつながったそうです。これまで、津波の生中継って世界でどこでもやっていなかったと思うんです。2004年のスマトラ島沖地震でも、津波の様子は、襲来後に視聴者映像がニュースに流れただけだと思います。もちろん訓練は何度も重ねていましたが、生中継で大津波が放送されるなんて、誰もちゃんと想定できていなかったのではないでしょうか。

――あの時のテレビ朝日の対応が必ずしも悪かったわけではない?

【山田理】私はテレビ朝日を批判しているわけでもなければ、当時スタジオにいたアナウンサーを批判しているわけでもありません。あのような状況の下、どうしたらいいか考える上で、必死に訴えたというだけです。キー局では30ほどのモニターを同時にチェックしていて、岩手だけでなく宮城からも福島からも、その他、全国各地から一気に情報が寄せられていたと思います。そんな中、私の叫びに気づいた方がいて、私を映してほしいと訴えたつもりはなかったですが、すぐに岩手に中継を繋いでいただいたのはありがたかったです。

■称賛されたニュース報道は「反省ばかり」、密着高校球児と距離を置いた理由とは

――岩手県だけにあの津波の映像を緊急放送で流す、という選択肢もあったわけですよね。

【山田理】あの津波の映像を全国に流しても西日本の人は分からないといっても、関西から宮城に行っている友人や働いている人もいたかもしれない、と考えると、あの映像を全国に見ていただけたのはありがたかったと思っています。

――いきなり中継がつながったのにもかかわらず、途端に冷静に情報を伝える山田さんの切り替えの早さにも驚きました。

【山田理】実はあの日、私はニュースデスク業務をしていたのですが、地震発生時にアナウンサーがみんな現場に出ていて、どうしようもなく、私がスタジオに座ったんです。地震発生から数分後の14:50頃にスタンバイして、結局20:30頃まであの席にいました。当時の映像を振り返ると、ずっと同じようなことを言っているし、落ち着いて言わなきゃいけないのに早口だし、冷静に考えれば「国道45号線まで津波が迫っていて、その後超える恐れがある」といった情報も全然伝えられていないし、反省ばかりでした。

――東日本大震災を受けて、仕事への意識の変化はありましたか。

【山田理】ありましたね。こんなんじゃだめだなと、今まで以上にやらなくてはいけないと強く思いました。訓練で鍛えられた部分はありましたが、圧倒的に足りないと感じました。震災以降に入ってきたアナウンサーには、地震を想定した原稿を渡すのではなく、当時の映像を見せて、スタジオでどう話せばいいか考えてもらう訓練を行っています。結局コメントを覚えても、実際の状況描写は見えているものを話さなければいけない。それなりにただ冷静に話せばいいということではなくて、岩手なら岩手、宮城なら宮城、福島なら福島で話すことは違う。それは映っている映像が違うからであって、そのことを理解してもらえるように指導しています。

――現在も復興支援への携わりや被災者の方々との交流はおありでしょうか。

【山田理】携わりや交流は各所でありますが、密着していた人たちとは一度距離を置きました。2012年に石原さとみさんにナレーションをして頂いた、ドキュメンタリー特番のディレクターを担当して、被災した陸前高田市の高校球児に密着しました。その後も、一度の放送に限らずずっと密着するべきという声もあったのですが、自由にしてあげたかった。彼は地元を離れましたし、報道を忘れさせたいと思って。一度陸前高田を忘れて、と思っているかもしれないし、話したくなる時って向こうの方もあるのかなと。それがいつになるかはわからないけど、進学や就職のタイミングには連絡をくれました。今は社会人としてもがいている時だと思うので、落ち着いて話せるようになった時にでもまたゆっくり話せたら嬉しいですね。

■「報道の仕事を辞めたいと思った」高校時代から知る菊池雄星選手の言葉に救われた

――山田さんが良く知る土地が被災し、取材し続けることは様々な苦悩があったのでは?

【山田理】一時は本当に辛くなってしまって、報道の仕事を辞めたいと思ったこともありました。でも、入社当初からずっと高校野球を取材していて、メジャーリーガーの菊池雄星投手も高校1年生の時からずっと追いかけていました。彼も盛岡出身で、当時私が悩んでいる姿を見て、「だめです、山田さんはやり続けなければいけない。やらなきゃいけない立場にいるんです、あなたは。僕は僕で、プロ野球選手としてやれることを考えています。山田さんと僕が出会ったのも、野球とアナウンサーという関係で始まっているんだから、それぞれの立場でやりましょうよ」と言ってくれたんですよ。彼のその言葉が凄い支えになって、放送する、しないは置いておいて、伝えるだけではなく被災地の方々の話を聞く、というのも大事だなと思って、各地を回っていました。

――震災から9年、報道で取り上げる頻度も少なくなってきますが、今後の東日本大震災についての報道はどのようにあるべきだと思われますか。

【山田理】震災報道に既視感を覚えている人たちがいる、というのが課題ですね。もしかすると、被災地の人でも「もういいよ」と思っている人たちもいて、そういう方たちにも見てもらえる報道を作っていくということですね。どうしても映像は同じ繰り返しになってしまうんですけど、視点を変えるのか、見方を変えるのか、例えば地域を変えて、南海トラフ地震の想定を岩手で取り上げて比較するとか。工夫を重ねながら、決して忘れてはいけない、伝え続けていかければいけないと思っています。

■「今後も伝えていきたい」営業職でも変わらない、山田さんの報道に懸ける思いとは

――今、様々な物議を醸している新型コロナウイルスに関する報道に対してはどのように思われますか。

【山田理】すごく難しい質問ですね。私個人の意見としては、震災の時もそうでしたが、本来的には危険をあおるのではなくて、じゃあみんなどうすればいいの?ということを伝えたらいいのではないでしょうか。例えば、岩手県内では感染者が1人も出ていない(3月26日取材時)中で、マスク・生活用品はどうなっているんだ?と伝えると危険をあおることになる。じゃあ目に見えないウイルスを相手に、映像取材で何を伝えられるかといったら、自宅で子どもたちが何をするべきなのか?改めて何に気を付けたらいいか?をやるしかないと思います。専門家の人の話もどれが正しいかわからない。行政批判をしていればいいということでもない。あおられると、変に怖い印象になっちゃう。どうしようどうしようとなる。もしかすると、全然関係ない話題のほうがいいかもしれない。正しい情報を知りたいのはもちろんですけど、どこかで切り離して、じゃあ違うことは、という思考も必要かなと。報道とはいえ、やはりテレビはエンターテインメント性がないとだめだと思っているので。

――「山田アナは今どうしているのだろう」というコメントも度々見かけます。5年前に営業部へ異動されたとのことですが、報道を続けたいとの思いはありましたか。

【山田理】当然ありました。あの時に生中継をした立場として、ずっと震災について取材する責任があると思っていました。今もあります。ただ、系列内でもアナウンサーが営業にいくのはよくあるケースで、会社員なのでしょうがないですよね。もちろん自分のスキルが違う形で生かされることも多々あって、営業でも勉強になっていることもたくさんあるので、楽しいですよ。最近、局内で部署間をまたいで業務をする制度も新しくできて、去年の夏は実況を手伝ったりもしました。

――今後の目標を教えてください。

【山田理】震災から数年後、奥尻町の町長をスタジオにお呼びしたことがありました。その時、町長は自信満々に「北海道南西沖地震から5年で、奥尻島は完全復興しました」と宣言されたことが印象的でした。それが岩手でいつになるかわからないけど、沿岸に住んでいる方が「復興したよね」という声が拾えるような仕事をしていきたいですね。岩手県全体では規模も違いますし、町が復興したからといって心の復興は進まない部分もあるので、すごく難しいですけどね。 “復興”という言葉ってこの9年間ずっと使われているものの、そもそもそのゴールが何なのか、ということも含めて、今後も伝えていきたいです。


 ネット上でどれだけ称賛されていても、「褒められることではない」「反省ばかり」と語る山田理さん。岩手朝日テレビでともに働いていた後輩によると、彼は「社内のみならず、岩手県中で引く手あまたな人」だと語る。

「今は営業部ですが、仕切れるし、話上手いからバンバン営業取ってきちゃって営業部が離さないんです。後輩への気遣いも、スポンサーへの気遣いもピカイチで、スポンサーもイベントがあれば司会に山田さん指名がくるし、優秀な人はどこに行っても優秀ですよね」と、彼を絶賛する人間はネット上だけではないようだ。

 あのニュース映像を見る限り、正直インタビュー前は厳格で怖いイメージがあったが、実際の山田さんは驚くほど穏やかで、謙虚で、温和な方だった。一度は“報道に何の意味があるのか”と思い悩んだものの、営業職に移っても、“報道の人間”という意識は今も常にあるという。何らかの形で地元に貢献したい――。その思いは十分に果たしているだろうが、これからも山田さんの地元への恩返しは続く。

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