前橋四公・秋元家と総社の交流示す 国替え後の古文書見つかる
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松田さん方から発見された内藤昌月の文書(上)と秋元氏関連の書簡

 前橋ゆかりの4大名家「前橋四公」の一つで、江戸時代初期に総社藩主を務めた秋元家と旧領民の交流を示す書状など古文書計10点が、前橋市元総社町の松田充雄さん(87)方から見つかった。江戸時代中期に秋元家側近から松田さんの祖先に送られた書簡で、献上品への礼や法事のやりとりが記されていた。秋元家は国替え後も旧領地を気に掛けていたことで知られ、総社地域との深いつながりを裏付ける史料だ。

 松田家初代の松田大隅守延吉は、戦国時代は武田家に従い、箕輪城代の内藤昌月の配下にあった。江戸時代になると、秋元家に従い、総社地区の鍛冶町の町づくりに尽力。1633年に秋元氏が甲斐かい国(山梨県)谷村藩に国替えされると、延吉の息子たちには秋元家についていく者もいた。

 松田家は総社で長く名主を務め、1885年の国調査では武田信玄の文書など貴重な史料が発見された。今回は自宅を整理中に発見。松田さんの分家に当たる歴史研究者の猛さん(62)が専門家と読み解いた。

 秋元家関連の史料は、当主の松田治部右衛門に宛てた書簡で差出人に秋元家側近の連名があった。治部右衛門から毎年献上されるサケに感謝する内容や、秋元氏の菩提ぼだい寺である元景寺(前橋市)の法事に関するやりとり、1738年に秋元家の正室が子を産んだことなどが記されていた。

 猛さんは「ほかの史料と併せて考えると、治部右衛門には秋元家の法事に関わる使命が与えられていたのでは」と推測する。

 県立文書館元館長の岡田昭二さん(65)は「秋元家と旧領地の関わりの一端を示す」と評価し、サケの記述に関しては「利根川が太平洋に注ぐようになったのは江戸時代になってから。県内でサケの遡上そじょうが始まった年代を研究する資料になる」と分析した。

 このほか戦国時代末期から幕末までの古文書10点も見つかった。戦国末期の文書は、昌月が北条家の猪俣邦憲に上州領内の訴訟について報告する内容で、領国への強い関心がうかがえる。江戸時代前期に秋元、酒井、井伊、松平ら大名同士が交わした礼状や寒中見舞いなど6点、幕末に高崎藩に提出した文書3点もあった。

 充雄さんは「しかるべき機関に文書を預け、研究に生かしてほしい」と話している。

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