ヤマト王権で重要地位 藤岡・七輿山古墳 全長150メートル超 同時期で国内3位の規模
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七輿山の調査成果について説明する軽部課長(右)と右島特別館長=11月6日、藤岡市役所
古墳周辺の地中レーダー探査を行う城倉教授(左)と学生たち=2018年3月

 群馬県藤岡市と県立歴史博物館、早稲田大が調査した国指定史跡の前方後円墳「七輿山ななこしやま古墳」(同市上落合)の学術報告書がまとまった。調査によって、これまで145メートルとされていた全長が150メートル超で、築造年代は6世紀の第二四半期(525~550年)ごろと判明。同時期の古墳としては国内3番目の大きさであることなどから、被葬者がヤマト王権で重要な地位にあったことが分かってきた。

◎横穴式石室で築造525~550年ごろ

 調査は最先端の機器を使った国内初の非破壊的手法で2018年に行われた。報告書は主に調査を行った同大の城倉正祥教授と学生らが作成した。

 それによると、七輿山は三段築成で、後円部に横穴式石室が確認されたことで、これまで5世紀末から6世紀半ばと大まかだった築造年代が絞られたという。

 当時の古墳はヤマト王権との政治的なつながりの深さを示し、大きさや構造は規定されたと考えられている。6世紀の西日本では、前方後円墳は大王や大豪族のみにしか許されなかったとみられている。

◎継体天皇支えた有力豪族か

 同時期の古墳を比較すると、531年に没した継体天皇の墓とされる全長約190メートルの「今城塚古墳」(大阪府高槻市)が最大。七輿山は継体天皇と姻戚関係にある尾張氏の墓とされる151メートルの「断夫山だんぷさん古墳」(名古屋市)と並ぶだけでなく、同じ設計図で造ったと思われるほど形状も相似している。

 歴博の右島和夫特別館長によると、越前(福井県)から皇位に就いた継体天皇の政治的基盤は東国にあり、七輿山の被葬者は新しい王統を支えた有力豪族との見方がある。

 右島さんは「東国の勢力は王権にとって親衛隊的な、軍事的な基盤になったと考えられる。七輿山ができた年代は、ヤマト王権が東国に直轄地『屯倉みやけ』を設け、畿内と東日本の関係が深くなる時期とも近い。この時期になぜ国内有数の古墳があるのか。興味深い」と話す。

 藤岡市教委の軽部達也文化財保護課長は、東国でも早い時期に藤岡に「緑野屯倉」が設けられたことに着目。「屯倉がなぜ藤岡に早期に設置されたか、七輿山と関連付けて調べていきたい」としている。

 この他、調査で内堀と外堀の間に位置する中堤帯の一部が見つかり、中堤帯を作為的に広げた遺構「造出」が存在していたことも判明した。造出からは形象埴輪はにわが出土しており、祭祀さいしが行われていたと考えられる。
(三神和晃)

◎非破壊的手法で地下構造を判別

 「七輿山古墳」の現地調査は、城倉正祥教授と考古学を専攻する学生らが2018年2~3月に行った。地中に電波を送り、反射波によって地下の構造や埋設物を判別するレーダー探査とデジタル3次元測量を用いて、墳丘の立体構造、埋葬施設の位置などのほか、近世や近代における改変の痕跡も分かった。

 城倉教授らは報告書で、大型で残存状況の良い七輿山のような古墳では「非破壊的手法でも多くの情報取得が可能」と成果を強調している。

 国史跡の古墳は発掘の許可を得るのが難しいため、軽部達也・藤岡市教委文化財保護課長は「調査手法という点でも非常に画期的だった。今後は、多く用いられそうだ」と話す。

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