《時代の児 渋沢栄一と上州》変革と創造 胸に 激動の時代 駆ける
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渋沢栄一(国立国会図書館ウェブサイトから)
渋沢栄一の生家「中の家」。若き日の渋沢の銅像が立っている=埼玉県深谷市

 群馬県とゆかりが深い実業家、渋沢栄一(1840~1931年)を描くNHK大河ドラマ「青天をけ」が14日スタートする。激動の幕末から維新を経て明治、大正を駆け抜け、変革と創造に突き進んだ「時代の」。上州での足跡から、その人物像に迫る。(文化生活部・井上章子、飯島礼)

◎商売人の才覚 養蚕の強力サポーターに
 「先祖累代の墓畔に立ちて西北方を望めば、榛名、赤城の上毛の諸山が、近く眉を圧してそびえている」。上毛新聞8000号を祝した談話「上毛に対する懐旧と希望(上)」(1913年9月27日付)で、渋沢栄一は上州の山々や利根川を見て育ったことを振り返っている。

 渋沢は1840(天保11)年2月13日、武蔵国榛沢はんざわ血洗島ちあらいじま村(現埼玉県深谷市)で父・市郎右衛門、母・えいの間に生まれた。村内に複数ある渋沢家の位置関係によって「中の家なかんち」と呼ばれた生家は、藍染めの原料となる藍玉の製造販売や養蚕を手掛ける豪農だった。「二番藍の買い占めに武州寄りの上州の村々を駆け回った事もある」と談話にあるように、跡継ぎである渋沢は、13歳ごろから近在の農家を回って藍葉の買い付けを始め、次第に商売人としての才覚を発揮していく。

 22歳の時には、藍農家の士気を高めようと、“番付表”を作成している。渋沢栄一記念館(同市)の飯島峻輔主任は「藍玉の品質改良を重ね、地域全体で豊かになろうという考えは、論語の精神を重んじる『道徳経済合一説』の原点となったといえるのではないか」と説明する。

■伊勢崎との縁
 生家のある血洗島は、伊勢崎市の境島村地区と近接しており、利根川の舟運業を介して蚕種・養蚕・交通と経済圏を同じくした。

 世界文化遺産の田島弥平旧宅とも近く、渋沢の生家との距離はわずか3キロほど。島村には渋沢の親戚もおり、いとこの志げが弥平家の本家に当たる六代目武平に嫁いでいる。72(明治5)年、武平を中心に日本初の蚕種会社、島村勧業会社を設立した際には、渋沢が定款ていかんや申合規則の草案を作成し、三井銀行からの資金調達も仲介。約200軒の蚕種農家を束ねた会社設立は、島村蚕種の品質維持や販路拡大につながった。

 歴代皇后に伝統として受け継がれてきた宮中御養蚕の最初の世話役を武平が務めたことにも渋沢が関わっている。昭憲皇太后から生糸生産奨励の一助に養蚕を始めたい旨の要望が新政府にあり、大蔵省に仕官していた渋沢が教師役の選定を任された。姻戚関係にあった武平を推薦し、71(同4)年、武平と島村の女性4人が宮中に出向いた。翌72年からは同郷の弥平が就任している。

 島村出身で江戸時代後期に活躍した南画家の金井烏洲うじゅうとも親しく、伊勢崎市の華蔵寺公園に残る顕彰碑は渋沢の撰文となっている。ぐんま島村蚕種の会の栗原知彦会長(79)は「渋沢は若い頃から島村の私塾に通うなど、地元住民にとって身近な存在。渋沢も島村に対して特別な思いを抱いていたのではないか」と語る。

◎攘夷思想 渡仏で転向 高崎城乗っ取りは未遂に
 1853年のペリーの黒船来航を機に日本は開国への道を歩みだしていた。しかし日米修好通商条約の締結により幕府への不満が高まると、天皇を尊び外国勢力を追い払おうとする尊王攘夷思想が各地で広まっていった。

 渋沢栄一は7歳ごろから、いとこで漢学者の尾高惇忠(1830~1901年)から論語などの漢籍を学んだ一方で、21歳からは江戸で北辰一刀流の剣術を修め、その過程で尊王攘夷思想に感化されていく。幕府の封建支配への不満を募らせた。

 渋沢が乗っ取りを企てた高崎城跡。本丸の北西方角にあった乾櫓

 「天下の耳目を驚かすような大騒動をおこして、幕政の腐敗を洗濯した上でなければ到底国力を挽回することは出来ない。傍観しては居られない」(渋沢の自伝)。1863年、渋沢は尾高と、同じくいとこの渋沢喜作(1838~1912年)と共に高崎城乗っ取りという“大騒動”を画策する。高崎市史などによると渋沢ら3人は「慷慨こうがい組」を組織して高崎城を占拠、武器や弾薬を奪って鎌倉街道を南下し、横浜異人館を襲撃する計画を立てた。だが尾高の弟、長七郎にいさめられ計画は未遂に終わった。

 攘夷蜂起の火種は各地にあった。高崎城乗っ取り計画と同時期には、江戸で私塾を開いていた桃井儀八(可堂)が沼田城占拠を試みるが、賛同者が逮捕されるなど難局に直面し計画は挫折した。

 渋沢と喜作は乗っ取り計画未遂後、事態を察知していた幕府の追及から逃れようと京都へ身を隠していたが、後に将軍となる一橋慶喜の家臣と交際があった縁から一橋家に仕えた。幕臣となった渋沢は1867年、パリの万国博覧会へ出席する慶喜の異母弟、徳川昭武に随行し、フランスへ渡航。「不意の僥倖ぎょうこう」によって広めた見分は、後の数々の事業に生かされることとなる。出発前には、渋沢は喜作の身の上を案じ「慶喜に地位を求めなさい」と言葉を送り、勘定奉行だった小栗上野介ら幕府関係者に面会している。

■時代の大勢
 渋沢が渡仏した翌68年、国内では旧幕府軍と新政府軍による戊辰ぼしん戦争が始まった。大坂城を逃れ、上野寛永寺に謹慎していた慶喜の警護を目的に「彰義隊」が結成されると、頭取に喜作が、副頭取には南牧村出身の天野八郎が就いた。

 同寺にこもった彰義隊は新政府軍による総攻撃で敗北し、捕らわれた天野は38歳で獄中死を遂げている。

 留学先で国内の混乱や仲間の戦死、喜作の籠城などを知った渋沢は深く心を痛めた。一方、時代の大勢を敏感に感じ取っていた。「いずれ近きうちに一大政変を見るのは必然の勢い。向後外国の学問が益々ますます必用になって来るに相違ない」

 渋沢研究会顧問で県立女子大名誉教授の片桐庸夫さん(72)=高崎市=は「渋沢は留学で見聞きした西洋文化を拒否せず、日本に取り入れるべきものとして意識を変えた。思考が柔軟で、次に何が必要か見極める力があった」と話す。

 明治維新により、渋沢はその年の11月に帰国した。

◎福祉にも力 公益を追求 製糸場建設 500社設立
 世界文化遺産の富岡製糸場(富岡市)は1872(明治5)年、明治政府の殖産興業政策の下、器械製糸の官営模範工場として誕生した。工場建設の設置主任となったのが、フランスから帰国後に政府に出仕し、大蔵少丞だった渋沢栄一。創業の要となる初代場長に学問の師であり、養蚕の知識もあった、いとこで義兄の尾高惇忠を抜てきした。

 尾高惇忠(渋沢栄一記念館所蔵)

 尾高は30(天保元)年、武蔵国榛沢郡下手計しもてばか村(現埼玉県深谷市下手計)の名主の長男として生まれた。学問に優れ、17歳ごろから自宅に私塾を開いて近隣の子どもたちに論語などを教えた。隣の血洗島村に生まれた渋沢もその一人で、この時学んだ論語が生涯の指針となる。

 戊辰戦争での敗走後、尾高は郷里榛沢を流れる水路を巡る騒動を地元住民の先頭に立って収めた力量が評価され、70年に民部省に登用された。時を同じくして渋沢は製糸場の設置主任となった。

 計画当初から関わった尾高だが、建設に必要な木材を妙義山から切り出す際、「全ての責任を取る」と反対住民を説得した逸話が伝えられている。建築資材のれんが製造や、れんがを接着させるセメントの代用としてしっくいの改良を考案するなど操業に向けて奔走。技術者として招いたフランス人が飲むワインを血と思い込み、「外国人に生き血を採られる」とのうわさから伝習工女の募集が難航した際には、娘のゆうを第1号として入場させ、デマを払拭ふっしょくした。

 工女の教育にも力を入れた。操糸技術習得のほか、習字や裁縫、読書など一般教養の向上を図った。富岡製糸場名誉顧問の今井幹夫さん(86)は「尾高が取り組んだ製糸場の経営や人材育成の基礎づくりは、その後のあらゆる工場における労務管理の原型になった」とみる。

■尾高から渋沢へ
 渋沢は後年、互いの雅号を用いて「藍香らんこう(惇忠)ありて青淵せいえん(栄一)あり」と述懐している。製糸場の所長室に「中庸」の「至誠如神」の書を掲げ、国家プロジェクトのために真心を尽くした尾高の精神は、渋沢に受け継がれていく。

 渋沢、尾高が創業に向けて尽力した富岡製糸場。来年150周年を迎える

 操業翌年の73(明治6)年、渋沢は大蔵省を退官。実業界に身を投じ、保険、運輸、製紙、製鉄など500余りの企業の設立に関わった。社会福祉事業にも熱心で、東京養育院の設立をはじめ数多くの病院や学校づくりに尽力。関わった事業は600以上に及ぶ。晩年は「論語と算盤そろばん」を著して論語の精神を重んじる「道徳経済合一説」を唱え、財産を占有せず、社会に利益を還元する近代国家のあるべき姿を説いた。

 幸田露伴は著書「渋沢栄一伝」で、「自然に時代の意気と希望とを自己の意気と希望とし」、長年にわたり勤労に励んだ渋沢を「時代の児として生まれた」と評している。

 最晩年まで公益を追求し、生活窮乏者を救うための救護法施行を政府に訴えた渋沢は、1931(昭和6)年11月、91歳で生涯を閉じた。同法が施行されたのは、その翌年のことだった。

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