《石灰採掘の記憶 梅田から足尾へ》埋もれた地域史に迫る
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1ヘクタールにおよぶミツマタ群生地
道路脇に建つ「鉄索工場隕命者諸精霊供養塔」=桐生市梅田町
石灰岩が溶けてカーテン状になっている箇所が見つかった米沢の岩壁

 今は人家が見当たらない屋敷山は約100年前まで、足尾銅山(栃木県)の重要な石灰供給地という別の顔を持っていた。なぜ石灰が必要とされ、どのように採掘、運ばれたか。長い歳月に埋もれた地域史に迫った。(和田吉浩)

◎ミツマタ群生地 花きっかけ歴史に脚光

 群馬県桐生市梅田町の山中に突如現れたミツマタの群生地―。同所のアマチュアカメラマン、谷沢滑治さん(77)が2013年春に捉えた群生地の写真が「美しいぐんまの山と森林フォトコンテスト」の2席に選ばれると、存在が広く知られることとなった。谷沢さんは「梅田町で撮影ポイントを常に探しているが、10年前にミツマタの群生は存在しなかった」と証言する。

 群生地のある地点は屋敷山と呼ばれる。地権者の前原太さん(64)によると、20年ほど前に杉を伐採して跡地に杉苗を植樹したが、シカの食害で全滅してしまった。前原さんは「シカが好まないミツマタだけが植栽跡地で自然に増えて群生化した」とみている。

 群生地を新しい観光資源としようと地元のボランティアらが整備に乗り出した。その過程で石灰採掘地としての屋敷山の歴史が浮かび上がってきた。

 群生地入り口から林道三境線を東へ約500メートル進んだ道脇に1901(明治34)年建立とされる石碑「大山祇大神」が残る。台座には「石灰岩採掘起業者 東村沢入 福田豊吉」「足尾銅山山地派出所長」などの名が刻まれている。

 群生地の周囲には、石灰岩を採ったくぼ地がある。120年前、ここで多くの石工が採掘をなりわいとしていた。

◎足尾鉱毒事件 浄水場用の有力産地に

 明治末期、桐生市梅田町で採取された石灰は標高千メートル超の三境山の稜線(りょうせん)を越えて足尾銅山(栃木県日光市)まで運ばれた。梅田での石灰採掘には足尾鉱毒事件が関係していた。

 渡良瀬川では明治中ごろ、アユが大量死した。大洪水後に川から取水する水田で稲が立ち枯れする被害も続出した。銅山の鉱毒が原因―と訴える田中正造や被害住民に動かされる形で明治政府は1897(明治30)年、鉱業主の古河市兵衛にろ過池・沈殿池、堆積場の設置などの予防工事命令を出す。

 坑内や鉱石処理の排水を発生源とする鉱毒は、石灰を加えて中和沈殿することで防げた。予防工事命令から間もなく古河は沈殿池のある浄水場を3カ所建設。浄水場稼働により多くの石灰が必要となったとみられる。

 足尾を語る会の元会員、坂本寛明さん(49)=太田市=は「旧国鉄足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)が開通した大正時代以降は鍋山(同県栃木市)の石灰が貨車で足尾に届いた」とした上で、「それ以前は近隣で調達するしか方法はなく、梅田は有力な産地の一つだった」とみる。

 鉄道敷設前の銅山では鉄索(ロープウエー)が資材運搬に利用された。90(同23)年の地蔵坂―細尾を皮切りに30路線作られ、総延長は85キロに達した。栃木県の銀山平と後に旧利根村になる地域を結ぶ鉄索は6路線25キロにも及んだ。

◎第八鉄索の調査 運搬の遺構を確認

 伊勢崎市宗高町の本田正男さん(70)は足尾銅山(栃木県日光市)と県内をつなぐ鉄索を調査してきた。きっかけは1908(明治41)年刊の「足尾銅山略図」に記された群馬県内の沢入―山地―米沢を結ぶ点線が気になったこと。詳細は不明だったため、「じゃあ自分がやろう」と2010年春、みどり市の沢入から桐生市梅田町周辺へ延びる「第八鉄索」(山地線)を調べ始めた。

 本田さんは明治期の地形図を見て、山地に当たるのは梅田町の「屋敷山」で「鉄索の中継点だったのではないか」と推理した。沢入―屋敷山―米沢を直線で結び、鉄索があったであろう山頂や峰を歩き回った。

 スキー場リフトも鉄索も、支柱のある箇所で搬器は「がたっ」と揺れ、振動で時々は運搬物が落ちる。本田さんは「目星を付けた峰を歩くと堆積するほどの石灰岩を見つけた。支柱の位置がおもしろいように特定できた」と振り返る。

 支柱跡だけでなく、みどり市東町の白浜山(1125メートル)、みどり、桐生市境の三境山頂近くの稜線(りょうせん)(1020メートル)の2カ所で住居跡を確認、保線などの技術者が寝起きしていたとみる。暮らしぶりを想像させるワイン瓶、ビール瓶、アカニシ貝などの遺物も見つけた。

 本田さんは「今より雪は多く、冬の寒さは格別だっただろう。高級食材を口にしていることから足尾銅山を経営した古河の従業員だったのではないか」と推測する。

◎鉄索稼働や採掘 技術者ら県外からも

 みどり市東町沢入の斎藤宏さん(84)は、近くの山中に「25号」と呼ばれる鉄索支柱跡があったと証言する。「狩猟で山に入ると25号が集合場所。その地点は目印となった」と振り返る。

 沢入から桐生市梅田町周辺をつなぐ第八鉄索ルートを歩いた本田正男さん(70)=伊勢崎市宗高町=は支柱跡数十カ所を確認。1900(明治33)年に完成した沢入―屋敷山間は地形図からみて直線距離で6263メートルで、地形に沿った距離では約6700メートルあった。

 さらに08年には、屋敷山―米沢(よのさわ)間2254メートルが開通した。当初は屋敷山が採掘の中心地だったが、米沢の採掘地が開発されると、屋敷山は石灰岩の積み替え中継地になったとみられる。

 屋敷山と米沢の斜面には住居跡の一部が残っている。本田さんは「陶器片など出土物から米沢だけで家族を含めて100人以上が居住していた」と推定する。

 米沢には07年建立の「鉄索工場隕命者諸精霊供養塔」が残る。屋敷山の石碑と同じく発起人は「福田豊吉」。世話人に「津久井秀吉」「小野田半四郎」と刻まれている。

 同所の長谷寺に残る過去帳には「福井県出身」「鉄索山ニテ負傷死」「油挿夫頭ノ妻」「坑夫」など、鉄索や採掘に関わった技術者らの存在が記されている。広範囲から人が集まり鉄索を稼働させ、石灰岩を切り出していた様子が伝わる。

◎米沢の採掘地跡 鍾乳洞の名残り発見

 桐生市梅田町の米沢(よのさわ)で鶏を放つと、隣の沢から現れる―。同所生まれの生形昇さん(67)は地域の古老から、そんな伝承とともに米沢が石灰岩の採掘地だったことを聞いていた。足尾銅山(栃木県日光市)への石灰の運搬を担った鉄索の研究をしている本田正男さん(71)=伊勢崎市宗高町=と知り合い、2018年末、一緒に米沢に入った。

 調査には、生形さんが所属する根本山の登山道整備を行う「根本山瑞雲倶楽部(くらぶ)」の仲間も誘った。屋敷山から米沢にかけて石灰岩が各所で露出。米沢の一角に工場跡とみられる石積みで囲まれた平地があった。

 さらに周辺を探索すると、ひさし状に張り出した高さ約20メートルの岩壁があった。壁面からは石灰岩が溶け出した幅約6メートルのくぼみを発見。周辺では8~10センチの鍾乳石や巻き貝の化石、動物の歯なども見つかったため、全員が「くぼみは鍾乳洞の一部」と確信した。本田さんは「縦穴状の鍾乳洞の半分程度が採掘され、くぼみはその残り」と考えた。

 同倶楽部も独自に調査した。山道の普請記録や、鉄索構築前の数年間、屋敷山で石灰岩を焼成して袋詰めし、徒歩で沢入(みどり市)まで運んだことを調べ上げた。

 郷土誌「山田郡誌」には「(屋敷山石灰山は)大正十(1921)年一月運搬等の都合に依り閉鎖」と記されている。生形さんは「梅田の石灰岩は採掘途中で放置された。伝承にあるように、鶏がくぐれるような、未知の鍾乳洞がこの山中にあるかもしれない」と期待する。

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