《老舗のDNA 群馬の百年企業》金沢屋商店 旅籠へ綿 眠り支える
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昭和前期の金沢屋商店(提供)
会社の歴史を振り返る本木社長
現在の金沢屋商店。町家の趣を残している

 江戸後期に創業し、寝具の卸小売りとして人々の快適な眠りを支えてきた金沢屋商店(高崎市本町)。185年の歴史で培われた技術で布団の打ち直しを手掛けるほか、最新の人間工学に基づく輸入ベッドも扱う。築93年の本社兼店舗は町家の趣を残しながらも現代的な雰囲気をたたえ、伝統と革新が融合する同社のありようを象徴する。(丸山卓郎)

■布団を普及

 1836(天保7)年、綿花から作られる原綿を布団用の綿に加工して販売する綿打ち商として本木庄次郎が創業した。当時は布団を各家庭で作ったが、綿が高価で庶民は手が届かなかった。庄次郎はこの状況を改め、布団を普及させようと事業を始めたと伝わる。

 創業地は現在の本社を置く場所で、高崎城の城下町にあった。周辺は「お江戸見たけりゃ高崎田町 紺の暖簾(のれん)がひらひらと」と称されるほどのにぎわいで、中山道の宿場町として多くの旅籠(はたご)が軒を連ねた。7代目の本木毅社長(54)は「旅籠に綿を納め、旅人の眠りを支えていたのだろう」と思いをはせる。

 綿の加工販売のほか、使い古して硬くなった綿をほぐして布団に戻す「打ち直し」も手掛けた。工場では何人もの職人が雇われ、「唐弓(とうゆみ)」と呼ばれる大きな木の弓の弦をはじき、綿をほぐした。

 事業環境が大きく変わったのは昭和に入ってから。安価な綿花の輸入が拡大し、綿は大衆化していく。4代目の啓次郎は1935年、需要の高まりに応えるために製綿機7台を導入する。

 しかし、間もなく太平洋戦争が始まり、製綿機は供出の危機にさらされる。ここで啓次郎が目を付けたのが、綿の保温性だった。

 本木社長によると、戦闘機は上空で油などが凍結するのを防ぐため、部品に綿を使ったという。啓次郎は製綿機を改良して中島飛行機などに専用の製品を納入し、軍需産業として供出を免れた。

■事業の中断

 だがそれも長くは続かず、戦況の悪化に伴い43年に全ての製綿機を供出することとなり、事業の中断を余儀なくされる。「店の前を通っていた路面電車の伊香保軌道高崎線の切符や駄菓子を売ってしのいだ。戦時下はとにかく売るものがなく大変だったようだ」と本木社長。

 数年後、祖父で5代目の長次郎が製綿事業を再開し、47年に株式会社金沢屋商店を設立する。戦後復興と高度経済成長を背景に業績を伸ばし、布団の製造にも着手。58年には同市山田町にあった工場を同市日光町に移転し、規模を拡大した。

 この頃、大手メーカーによる既製品の寝具が台頭し、西川の合繊綿の布団やブリヂストンのウレタンマットレス「エバーライト」が人気を集めるようになる。所得が増え、人々が豊かな生活を求めるようになった時代。金沢屋商店は、事業の軸足を卸小売りに移していく。

【企業データ】
▽本社 高崎市本町
▽会社設立 1947年
▽従業員数 7人
▽店舗数 2店(高崎市、神奈川県)
▽事業内容 寝具の卸小売り

1836年 本木庄次郎が綿打ち商として創業
1927年 現在の店舗建設
  35年 4代目・啓次郎が製綿機を導入
  43年 製綿機を供出し、製綿事業が中断
  47年 5代目・長次郎が株式会社金沢屋商店を設立
  58年 製綿工場を山田町から日光町へ移転
  73年 卸部門強化のため問屋町店を開店
2003年 本町の店舗を改装
  11年 オーストリアのリラックス社の製品輸入開始
  16年 湘南T-SITE(神奈川県藤沢市)に出店
21年8月 サウスウッド(横浜市)に出店予定

◎個々に合う品を追求


 既製寝具の卸小売りに注力していった昭和中期の金沢屋商店(高崎市本町)。個人消費が拡大する中で売り上げを伸ばし、1973年には国内初の卸商業団地として市内に形成された高崎問屋街に出店する。だが、大型店の進出や市街地の空洞化、流通革命による中間卸の地位低下などの急速な変化にさらされ、事業は厳しさを増していった。

■量販店と差別化

 「毎月金がなくて、従業員の給与が払えずにおやじが自分の金を入れていた」。本木毅社長(54)は、寝具商社での勤務を経て実家に戻ってきた90年代を振り返る。「中間問屋の役割は終わり、大きな問屋がどんどんつぶれていた」。卸部門の強化も狙った高崎問屋街の店舗は2007年に閉店を余儀なくされた。

 布団の材料は綿から羊毛や羽毛へと多様化し、合成繊維を使った大量生産品が主流に。寝具はデパートやホームセンター、さらには通信販売でも買えるようになり、価格競争が激化していった。

 父の孝雄会長(84)の後継として店の運営を任された本木社長は、量販店との差別化を図るべく、店舗や商品の刷新に取り掛かる。

 商品は、大量生産品とは距離を置いた。自ら欧州に足を運び、メーカーと交渉して素材や機能にこだわった寝具を直輸入するようにした。木と天然ゴムだけでベッドを製造するリラックス社(オーストリア)とは2015年、日本で初めて輸入代理店契約を結び、主力商品となった。

 極めて高い通気性を持つ一方で、詰め物が飛び出す恐れがあるとして日本の規格には適合しない海外製の生地を使った羽毛布団も扱う。「寝具はパーソナルな道具。最大公約数ではなく、一人一人に合った道具を提案する良きセレクターでありたい」(本木社長)

 03年に着手した本店の改装では、あえて靴を脱いで入店する構造とし、客が寝具の使い心地を試しやすくした。「試し寝」ができる個室も整備し、パジャマを借りて数時間眠ることができる。

■定額制に挑戦

 県外展開にも乗り出した。16年に湘南T-SITE(神奈川県藤沢市)に期間限定のポップアップストアとして出店。今月末には横浜市の商業施設に常設店舗を出す予定だ。

 「『布団屋の非常識』であっても本当に役立つものを提案したい」と話す本木社長が次に挑戦するのが、ベッドのサブスクリプション(定額制)サービス。天然素材のベッドは耐久性に優れ、長く使えるが価格が高い。一つのベッドをメンテナンスしながら使い、一人一人の負担を低減する狙いだ。

 既に全国の寝具店などでつくる協同組合が旅館やホテル向けに手掛けるサブスク事業に参画した。今後、個人向けのサービスを独自に展開していく考え。

 「良い道具でも高くて買えないのでは意味がない。多くの人に使ってもらえて初めて社会に貢献していると言える」。真摯(しんし)なまなざしに、庶民に布団を普及させようとした初代・庄次郎の姿が重なった。

【取材後記】事業継続に強い意志

 「つなげる義務はあるがつぶす権利はない」。本木社長は、自身の置かれた立場を端的に表現した。老舗企業の7代目としての重責を悲観したわけではなく、何としてでも事業を継続するという強い意志が込められた言葉だった。

 企業は存続しているだけで雇用を生み、地域に貢献している―。本木社長は「続けることに意義がある。長い歴史のうちの20、30年間をご先祖さまから預かり、次の世代につなげていくことが私の役目だ」と力を込める。

 県外展開やサブスクなど新たな取り組みを始めた金沢屋商店。社会に求められる企業であるための挑戦は続いていく。

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