《老舗のDNA 群馬の百年企業》戦国時代の1563(永禄6)年創業 糀屋(高崎市問屋町)
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
えびす講市で振る舞われる甘酒を求めて黒山の人だかりができる糀屋(大正時代)=提供
昭和40年代に撮影された関東ロックウールの社屋
1988年に建設された高崎市問屋町の本社ビル

 時代の変化に対応し、進化を続ける創業100年超の老舗企業を紹介する。(宮村恵介)

◎地域と共に伝統 熟成

 蔵に入ると甘い糀(こうじ)の香りが鼻をくすぐる。少しいれば汗がにじむ醸造室「糀室」では職人が熱々の米をもみ、種糀をなじませる。糀屋(こおじや)の蔵(高崎市元紺屋町)での光景は数百年前から変わらない。「こうじ菌の力で糀を作るのはいつの時代も同じ」。22代目、飯島藤平社長(64)は笑った。

 漬物や塩糀、ドレッシングなど時代に合わせて糀屋の商品は多様化。高度成長期に多店舗展開するなど販売手法も曲折してきたが、基本となる糀作りには変わらない伝統が息づいている。

◎戦略物資

 糀屋の歴史は戦国時代に始まる。武田信玄の軍勢に箕輪城が攻められた1563(永禄6)年、初代の飯島喜太夫は侍を辞めて専業の商人になった。種糀を扱う技術者で、周囲に糀を分けたり、みそを造ったりしていたと伝わる。

 保存も効くみそは当時は戦略物資として欠かせず、製造技術を持つ祖先は重宝された。井伊直政が高崎城主を務めた頃には家臣に登用されたという。みその醸造技術者は、領主の国替えとともに移住する例が多いが、飯島家は高崎の地にとどまり続けた。飯島さんは「千葉の館山に親類がいたので、独自に塩を仕入れるルートを持ち、領主に依存せずに商いをできていたのではないか」と推測する。

 飯島家には「目立つな、権力者に左右されるな」との家訓がある。時の権勢におもねらず、自分たちが築いてきた技術で時代を生き抜く覚悟と誇りが伝わってくる。

◎江戸に店舗

 時代は下って江戸時代の1700年ごろ。経済的な力を付けて大都市となった上野・御徒町に糀屋は店舗を構え、みその販売を始める。「みそは群馬では自宅で造っていたためあまり売れなかったが、職人などの分業が進んだ江戸ならば、売れ行きがよかったのだろう」と飯島さん。御徒町に店舗を持っていた糀屋を頼って上州をはじめ各地の行商人が集まり、1800年ごろには御徒町の店舗で旅館業を営み始めた。

 この頃には当主の兄弟が、綿織物や絹織物の行商を営んでいたと伝わる。「旅館に集まってきた人の情報を基に、売り込み先を決めていたのではないか。情報拠点として旅館を営んでいた節がある」と当時の様子を語る。

 糀屋も順調に発展していった。店に残る大正時代の写真には、えびす講市で振る舞っていた甘酒を求め、店の前に黒山の人だかりができている様子が収められている。

 飯島家の家訓には「今あるのは皆さまのおかげ、御恩に報いよ」との言葉もある。地域に利益を還元し、地域と共に生きることが、商売を長く続けていく秘訣(ひけつ)の一つになっているのかもしれない。

【企業データ】
 ▽本社  高崎市問屋町
 ▽会社設立(法人化)  1948年
 ▽従業員数  約30人
 ▽拠点  市内に工場
 ▽業務内容 みそ、漬物、甘酒飲料製造販売

1356年 長野県飯島より高崎に移住
1563年 専業で糀製造を開始
 90年 井伊直政の臣下に登用される
1700年ごろ 江戸・上野御徒町にて、みその販売開始
1800年ごろ 御徒町の店舗で旅館業を営み始める
1945年 東京大空襲で店舗兼旅館を焼失
 61年 製造工程に必要な断熱材を手に入れるために関東ロックウールを設立
 68年 本社(高崎市問屋町)と製造拠点(同市元紺屋町)を分離。百貨店などにテナント展開し、最大で48店舗に
 73年 オイルショックで経営危機に
 85年 22代目・飯島藤平さんが入社
 88年 本社ビルを建設
 95年 産地直送事業開始
2007年 冠婚葬祭部門に注力
 14年 営業を本社ビルに集約
 17年 瓶入り甘酒製造開始
 20年 新型コロナウイルス下での営業を模索

◎「生業」広げ助け合う

 糀屋を営む飯島家の家訓には「一族は生業を異とせよ」との言葉がある。職業を別々にして互いを助け合い、苦難を乗り越える知恵が詰まっている。糀屋から発祥した企業に断熱材などを扱う商社「関東ロックウール」(同市倉賀野町)がある。年間売上高約68億円に達し、業界をけん引する企業だ。

◎進取の精神

 父親を早くに亡くした先代の21代、飯島藤平さん(故人)は14歳で家督を継いだ。幼かったため、経営は親族に任せ、東京の御徒町で営んでいた旅館から早稲田大学に通学。ただ、旅館は東京大空襲で焼かれ、糀屋は戦後、高崎での商売一本から再スタートを切った。

 先代は進取の精神にあふれる人だった。醸造蔵では、当時としては珍しかったベルトコンベヤーを導入して生産を効率化。糀(こうじ)を冷ます作業でも、天井に扇風機を付け、温度を管理しやすくした。

 商売のヒントを得るため、海外旅行が自由化される前の1950年代半ばから米国のスーパーなどをたびたび視察した。その中で建物の断熱に使われるロックウールに着目した。

 当時は糀を造る醸造室の断熱は土壁に頼っていたが、数年に1度塗り替えなければならず、効率が悪かった。そこで、帰国後にロックウールを使った糀室を造った。保温効果が高い上に軽く、長く使えるなど非常に有用だったことから61年にロックウールを製造販売する関東ロックウールを創業した。同社は販売専門の商社に転換、経営を軌道に乗せると、21代目は弟に会社を任せて糀屋に専念する。

 その他にも、牛丼店や日用品のディスカウントストア、ジーンズショップなどを経営した時期もある。22代目の飯島藤平社長(64)によると「はやり物が好きで飽きっぽい上州人らしい性格」だったという。

◎多角化

 糀屋も高度経済成長期には事業内容を多角化。本社機能を元紺屋町から問屋町に移し、カップラーメンなどの食品卸売業なども営みながら、百貨店やスーパーマーケットに漬物店を出店した。一時は48店舗を展開していたが、賞味期限の短い漬物の返品が多くなるなど拡大路線があだとなり、徐々に経営を圧迫していった。

 そんな中でオイルショックが直撃。先代が「今月には倒産してしまうかもしれない」とぼやくほど資金繰りに窮した。家業を続けるため、漬物販売やテナント展開を中止するなど規模を縮小した。
 この時は、関東ロックウールに従業員を引き取ってもらうなど、かなりの支援を受けたという。22代目は「『生業を異に』していたからこそ、生き残れた」と家訓の大切さを振り返る。

 嵐が過ぎ去り、経営も落ち着きを取り戻した85年。冷房施設のプラント設計をしていた22代目が漬物製造再開のために呼び戻された。栃木県今市市(現日光市)のみそ漬け店に修業に出され、社長に付いて回って経営のイロハを学んだ。このころ漬物製造設備を一新し、本社ビルを建設するなど矢継ぎ早に現在の態勢になる投資が行われた。

◎450年の味 生かし挑戦

 「商売をする際は、450年の伝統を生かせるかどうかを基準の一つに考えている」。糀屋の22代、飯島藤平社長(64)は経営方針を語る。1985年に呼び戻された際は素人同然だったが、先祖が継いできた伝統に裏打ちされた商品を現代の手法で売ることにこだわっている。

 みそも漬物も、歳暮や中元が終わる2月と8月がとにかく暇だったため、入社後にこの落ち込みを埋めることを最大の課題にした。88年に本社ビルを建設した際に小売店を併設。江戸時代のレシピをベースに塩分控えめな江戸味噌(みそ)を復活させ、姉の飯島艶子さんとみそ教室を始めた。

◎みそ教室や土産

 上州ではみそを家で造る文化が根付いていることもあり、高齢者から子どもまで幅広い年代が参加。当初狙った2月だけでなく、年間で1300人に教える一大事業に成長した。新型コロナウイルスの感染拡大で現在は大人数は集められないが、予約制にして回数を増やすことで続けている。

 一方、8月は新盆などで家を訪れた弔問客への手土産にしてもらうことを発案した。2007年に新聞のおくやみ欄をベースにした顧客情報管理システムを導入。新盆や一周忌など仏事の前に電話やはがきで商品を案内した。一時は富山や福島など7県で年間6万人のデータを登録。売り上げはうなぎ上りに増え、中元がかすむほどになった。

 飯島社長は「次の展開を考えるときは、どうしたら新しいニーズをつくれるかが重要」と指摘。「当初は素人で右も左も分からなかったが、とにかく頭を使った」と未経験だったからこそできた挑戦を振り返る。

 ただ、最近は大規模な葬儀も減って仏事関連の事業は縮小している。「新型コロナの影響で葬儀も減り、葬儀店は顧客の囲い込みを強化している。ビジネスモデルとしては岐路に立っている」と分析する。

◎ネットに活路

 インターネット通販の普及で消費行動が大きく変わってきたため、19年からは会員制交流サイト(SNS)を駆使した新しい販売手法を模索。インスタグラムに糀(こうじ)を使ったレシピを定期的に紹介し、販売につなげられないか研究している。フォロワーは2千人を超えたが、「頭で考えているより世の中の動きが速い。さらにスピードを上げないといけない」と焦りも見せる。

 一方で、上州のみそ造り文化を後世に伝えるため、高崎市と協力して小学生を対象にしたみそ教室の開催を検討。新型コロナで止まっているが、「30年後に糀屋の名前を高崎の全員が知っているようにしたい」と足元の顧客の開拓にも力を入れる。

 伝統をつなぐために新しいことへの挑戦を続ける飯島社長は「創業から450年以上といっても千年企業から見れば、まだまだ折り返し」と謙虚に語る。家訓の「今あるのは皆さまのおかげ、御恩に報いよ」を胸に、「この地で商いを続け、地域に恩返しをしていく」と当主としての覚悟を語った。


【取材後記】多様性で生き抜く

 「一族は生業を異とせよ」。糀屋を営む飯島家に残る家訓だ。450年超の歴史には江戸幕府成立や明治維新、太平洋戦争といった人々の考え方や経済体制の潮目が変わる瞬間もあった。

 ビジネスの世界で「選択と集中」が叫ばれて久しいが、選択を誤って厳しい状況に追い込まれる企業も少なくない。新型コロナウイルス感染拡大の例を見るまでもなく、外部環境の変化の予想は難しく、「集中」にはリスクが付きまとう。

 さまざまな時代を生き抜いてきた飯島家だからこそ、変化の荒波にのまれることのないよう「多様性」を確保することの重要性を学んできたのかもしれない。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
関連記事