《老舗のDNA 群馬の百年企業》ホリグチ(渋川市半田) 時代、社会応じ多角化
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ホリグチの本社。看板が目印
明治末期に撮影された堀口商店。のれんには屋号のマルホンが記されている(提供)
関東酸素工業所設立。当時の工場の様子=1954年撮影(提供)

 どっしりと構えた店蔵が、道路を行き交う車を見守るようにたたずむ。屋根の分厚い瓦には「●」と刻まれている。金物商「堀口商店」から発展したホリグチ(渋川市半田)は、マルホンの屋号で親しまれてきた。市中心街にある旧本社「店蔵記念館」(同市渋川)は、同社の歴史の一端を物語っている。

 地域とともに歩み続け、建設資材の専門商社であると同時に、携帯電話の販売など多角的な事業を展開する。26代目の堀口靖之会長(82)は「時代や社会のニーズに対応しながら変化してきた会社」と語る。(井部友太)

編注:●は○の中に本

◎金物商から発展
 江戸時代の1629(寛永6)年に創業した。当初は茶や干し魚といった保存食「阿似物(あいもの)」などを取り扱っていたという。半農半商で、2と7の付く日に市を立てて商売をしていたとされる。

 江戸末期の1850年ごろ、堀口家の先祖である堀口吉右衛門が「上州鉛銭(なまりせん)」の鋳造・発行を始めた。鉛銭は上州地方で流通して商品券的な役割を果たし、地域の流通経済の円滑化に貢献。明治時代の初めごろまで庶民に愛用されていたという。堀口家の当主は代々、堀口吉右衛門を襲名した。鉛銭には堀吉の文字が刻まれている。

 明治から大正にかけては主に金物や農具を販売。その後はセメントや酸素など取扱商品を増やしながら発展し、今日の多角経営の礎を築いた。取扱品目が多様化したのは、顧客が増えるにつれ、それぞれの要望に一つ一つ応えた結果だったという。

 66(慶応2)年に完成した旧本社「店蔵記念館」は2000年に国登録有形文化財となり、金物商時代の店蔵などの姿を今に伝えている。

◎株式会社化
 昭和に入って戦時色が強まり、統制経済の下、生活必需品は配給となった。25代目の吉七さん(故人)は食糧難と闘いながら、わずかな配給品を売って堀口商店と家族を守った。

 太平洋戦争に突入すると統制が一段と厳しくなり、配給される金物は減り、手に入っても粗悪品ばかり。吉七さんは配給以外に品物があると聞けば、朝早く汽車に乗って東京や新潟へ向かったが、ほとんどが空振りだったという記述が残る。

 27代目の吉彦社長(46)は「先々代が厳しい戦時中や戦後の時代をしっかり守ってきてくれたからこそ、ホリグチの今がある」と敬意を表する。

 戦火を乗り越えた1949年、堀口商店は新しい時代に対応するために株式会社化。新しい時代を見据え、事業を拡大していく。


【企業データ】
▽本社           渋川市半田
▽会社設立(法人化)         1949年
▽従業員数約380人(グループ全体、2021年5月)
▽拠点    ホリグチ含むグループ会社計11社
▽事業内容  建設資材の販売・加工・施行、携帯電話販売など幅広く展開

1629年 渋川で創業。茶や干し魚など保存食の阿似物(あいもの)を販売
江戸末期 堀口吉右衛門が「上州鉛銭」を発行
 66年 旧本社「店蔵記念館」完成
1949年 堀口商店を株式会社化
 53年 酸素部門を独立し、関東酸素工業所を設立。この後、グループ会社を次々と展開
 59年 関東アセチレン工業を設立
 68年 渋川市半田に新社屋、工場、倉庫完成
 83年 26代目、堀口靖之氏が社長就任
 93年 ホリグチに社名変更
 95年 ドコモショップ渋川店開店。金島温泉「富貴の湯」開業
2000年 旧本社「店蔵記念館」が国の登録有形文化財に
 17年 27代目、吉彦氏が社長就任

需要に応え新事業を決断

 戦後の混乱からようやく復興が軌道に乗り始めた時代。後のホリグチ(渋川市半田)の25代目、堀口吉七さん(故人)は新しい時代に対応した商売を模索していた。金物商の堀口商店は大きな転機を迎えることになる。

◎酸素製造が転機
 堀口商店は、戦前から酸素を販売していた数少ない店だった。供給を受けていた伊勢崎の会社が戦災で閉鎖したため、東京から仕入れるように。自動車で渋川と東京を毎日往復して輸送し、手間も経費もかかったが、顧客の要望に応えた。

 朝鮮戦争をきっかけとした「金ヘん景気」で鉄鋼業界が好景気に沸き、鉄鋼の溶接に欠くことができない酸素の需要は高まった。取引先でも鉄の生産に必要な酸素の供給が追い付かない状況だった。

 しばらくして、取引先の鉄鋼会社から酸素の自社製造の話を持ち掛けられたことをきっかけに、堀口商店は1953年に酸素部門を独立し、関東酸素工業所(現在のカンサン)を設立。小売り販売のみの事業形態から、メーカーの側面も併せ持つようになった。

 吉七さんは生前、上毛新聞のインタビューでこう語っている。

 「経験のない身で、酸素工場を建設するのは、大変な冒険だったし、決断が必要だった。しかし、思い切って踏みだし、成功させたことが多角化の弾みになったと思う」(92年9月16日付)

◎時代を読む
 市場のニーズに応える形で、59年には関東アセチレン工業を設立し、鉄の切断や溶接に利用されるアセチレンの製造にも着手。その後も取扱商品を部門ごとに別会社化し、専業化することでグループ会社を増やしていった。

 68年にはグループの主力である「堀口商店」を現在地に移し、事務所、倉庫、工場を新設した。さらに鋼材、建材、機工、ガス・プロパン、鉄筋の5部門の営業所を統括した。その後も変化する市場や顧客の要望に向き合いながら、76年に光菱生コンクリート、長野県に長野酸素を設立するなど積極的に事業を拡大していく。

 時代の流れを読み取り、多角化路線を成功させた吉七さんについて、堀口吉彦社長(46)は「私にとっては祖父でビジネスで関わったことはないが、人望や求心力、行動力のある、魅力的な人だった聞いている」と振り返る。

 社訓には「無駄を省いて貯金しなさい」との言葉がある。靖之会長(82)は「資力をためておき、チャンスがあったら大胆な投資をする。マーケットや顧客のニーズを見極め、チャンスを逃さないようすることを心掛けてきた」と話す。

 変化に柔軟であり、常に一歩先の将来と勝負どころを見極める経営者の視点こそが、長寿企業には大切なのかもしれない。

グループ力 郷土のため


 渋川市内を車で走ると、関越道渋川伊香保インターチェンジ近くでホリグチ(同市半田)の頭文字「H」を表示した大きな看板が目に入る。グループの中心である堀口商店は1993年、ホリグチに社名を変更。現在は大型建築に不可欠な鋼材や鉄筋などの販売から加工、施工まで手掛ける建設資材の「専門商社」として、インフラ整備に貢献している。金物商から発展し、多角化を進めてきた歴史を持つ同社は、平成以降も幅広い分野に事業を広げた。

◎多角化経営
 95年には通信インフラを支えるために携帯電話販売事業に参入。現在は同市を中心にドコモショップ3店舗を運営する。携帯電話やスマートフォンの販売をはじめ、端末の故障修理なども手掛け、地域の信頼を得ている。

 ホリグチに加え、高圧ガスを製造供給するカンサン(渋川市中村)、産業用から医療用までさまざまな分野のガスと機器を販売するマルホン(高崎市倉賀野町)の3社を中核に、現在は計11社が多角的な事業を展開。グループ力で地域に密着したサービスを提供する。

 堀口吉彦社長(46)は「経営環境が変化しても、さまざまな事業を展開していることで、バランスを取れるのが多角経営の強み」と話す。

◎社会性と利益
 ホリグチの社訓には「御国の為め、郷土の為めには分に応じた散財をしなさい」という言葉がある。これまで県内有数の観光地、伊香保温泉を抱える渋川市の美化や献血活動など、地域貢献にも力を注いできた。

 時代をさかのぼると、戦後すぐの頃には出入り業者やその親戚、市民まで広く呼び掛け、堀口商店の離れ座敷で経済講座を無料で開いた。「ためになる」話を一人でも多くの人に聞いてもらいたいとの思いからだったという。その後も継続して有識者を招いた勉強会を開催している。

 さらにグループ会社が同市川島地区で日帰り温泉「富貴の湯」を運営。源泉掛け流しの湯はグループ社員の福利厚生の充実につながるほか、地域住民を癒やしている。70歳以上の高齢者らの入場料を半額にするサービスも。地域に尽くすという姿勢は今も昔も変わらない。

 企業を長続きさせる秘訣(ひけつ)について、堀口靖之会長(82)は「地域社会や顧客、社員などステークホルダー(利害関係者)に貢献するという考えは変えてはいけない。会社の社会性と利益追求を両立することが大切」と語る。吉彦社長は「いつの世もお客さんのニーズをくんだビジネスを展開することが大事。今後も地域社会やお客さんの声をしっかり聞くことを心掛けたい」と意気込む。

【取材後記】次なる変化期待
 顧客の声に真摯(しんし)に耳を傾け、社会の流れやニーズに合わせて多角化経営を発展させ、進化し続けてきたホリグチ。取材前までは老舗企業に保守的なイメージを抱いていたが、変化に柔軟だからこそ今があるのだと感じた。次なる変化も期待したい。

 もう一つのキーワードは社会貢献。靖之会長が「社会性と利益追求の両立」について説く姿が印象的だった。コロナ下でのニューノーマルへの対応など時代が激しく変化する中で、老舗の歴史や経営姿勢から学ぶべきことは多い。

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