稲部市五郎種昌の検視記録発見 富岡・七日市藩で獄死 シーボルト事件 連座の通訳
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シーボルト事件の新史料として注目される稲部の検視記録(長崎学研究所提供)

 江戸時代後期に「シーボルト事件」に連座して上野国七日市藩(現群馬県富岡市)に預けられ、病没するまでの10年間をろうの中で過ごした通訳の稲部市五郎種昌(1786―1840年)の検視記録が13日までに見つかった。幕府側は他殺の疑いを重点に調べており、幽閉後も幕府が稲部を注視して警戒した様子がうかがえる。研究者は「当時の社会をゆるがせた事件の重要人物とされた稲部の研究が進む契機となる」としている。

◎長崎学研究所が発表

 長崎市長崎学研究所によると、史料は幕府役人による検視に立ち会った七日市藩士の石井住右衛門が記した約60ページの文書。石井は、藩医の畑道意とともに稲部の死をみとっている。

 文書には稲部が亡くなる1カ月前に下痢を伴う病気を患い、遺体は塩漬けにされたとつづられている。検分した江戸町奉行配下の与力が外傷の有無などを調べ、検視場所の見取り図や牢役人や医師の聞き取りも記されていた。

 富岡史などによると、稲部は長崎に生まれ、長崎奉行所に通訳として勤めた。蘭語に堪能で、ドイツ人医師シーボルトの研究や生活を手助けし、通訳するうちに医学知識を身に付けた。

 シーボルトに日本地図を受け渡した罪で、1830年に七日市藩での永牢の刑となった稲部だが、藩主の前田利和は丁重にあつかった。畑ら藩医が稲部から蘭法医学を学んだため、地域の医学に影響を与えたとされる。死後は藩内の金剛院に葬られた。

 1931年には群馬医師会長や衆院議員を歴任した斎藤寿雄と北甘楽郡医師会員によって、牢の跡地に顕彰碑「稲部種昌先生碑」が建立された。墓と碑は市文化財に指定されている。金剛院の榎本晃英住職は「立派な方で存在が注目され、うれしい」と語った。

 史料は都内の古書店で同研究所が2年前に取得し、長崎歴史文化博物館に収蔵。文章の解明と並行し、東京大史料編纂所共同研究員のイサベル・田中・ファンダーレンさんと共同で群馬県内での調査も行った。

 成果を論文にまとめ、研究所が今年発行の紀要で発表した。執筆した藤本健太郎学芸員は「顕彰碑の建立は富岡の医学がシーボルトに根差しているという誇りの表れ。長崎発の知識が各地に与えた影響を調べていきたい」と話した。

 シーボルト事件 1828(文政11)年、シーボルトが帰国する際に国外持ち出しが禁じられていた日本地図を所持していたことが発覚。地図を贈った幕府天文方の高橋作左衛門ら多くの関係者が処罰された。

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