《変わらぬ想い 日航機墜落事故34年》命の限り語り継ぐ
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遺体についての資料を見つめる飯塚さん

■遺体に頬ずり
 「遺族はたとえ指一本だけの遺体でも、いとおしそうに頬ずりするんだよ」。ノンフィクション作家の飯塚さとしさん(82)=前橋市川原町=は潤んだ目元を隠すように天井を見上げた。

 事故当時、群馬県警の身元確認班長として 目の当たりにした光景がよみがえる。事故で人生観が変わった。遺族の 気持ちを第一に、心を 寄せてきた。「語り部」として悲惨な事故を生涯伝えていく決意は、34年を迎える今なお揺るがない。

 遺体の身元確認は藤岡市の市民体育館で行われた。最初の遺体が運び込まれたのは1985年8月14日。12月18日まで計127日間に及ぶ確認作業の始まりだった。

 手足の指紋、毛髪、歯科治療のカルテ、エックス線写真、マニキュア―。身元特定に結びつく可能性がある手掛かりや情報を必死にかき集めた。何千もの部位となった遺体を検視し、数え切れないほどの遺族と向き合った。「極限の状態。経験も何も関係なかった。遺族のために何とかしたいという気持ちだけが重要だった」

 遺族の 悲しみが集約された体育館で、汗まみれで作業した医師、看護師、警察官らの姿を書き残さなければ―。96年に退職し、自然と湧き上がってきた感情だった。書斎にある慰霊塔をモチーフにした置物に手を合わせ、筆を進めた。身元確認作業の日々を記録した「墜落遺体」を出版した。

 反響は大きく、全国の講演会に呼ばれるようになった。多くの人と関わる中で、藤岡の体育館以外にも関係者それぞれの“現場”があったことに気付いた。遺族をはじめ、墜落現場となった上野村の住民、自衛隊員などを取材。2001年に「墜落現場 遺された人たち」、12年に「墜落の村」にまとめた。

■止まらぬ意欲
 事故から間もなく34年。時間の経過を実感することも増えた。書斎に残る当時の資料を見返し、「あの時に出会った少年はもう立派な大人になっただろう」と思いをはせた。昨年、介護を続けてきた妻が施設に入り、自身も市内のシニアハウスに入居した。近年は体力を考え、遠方での講演は控えている。

 ただ、執筆の意欲は止まらない。現在は事故のことや自分を支えてくれた妻のことをまとめたエッセーを書いている。

 遺族を思えば、どんなに大変なことも苦しいとは感じなかった。生きているだけで幸せなのだと心に刻まれている。「当時の記憶を命の限り、語り続ける。それが私の責務だ」

 (寺島努、大森未穂菜が担当しました)

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