《あの夏 20代記者が伝える戦争》父の戦死 3度の告知
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戦争の悲惨さを伝え続ける木村さん

 終戦の夏から74年を迎えた。戦争体験者の高齢化が進み、生の声を記録する機会は失われていくばかりだ。20代の記者3人が戦争遺児や自身の祖父、元兵士を取材し、貴重な証言に耳を傾けた。

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◎太田・戦争を語り継ぐ会会員・木村久子さん(82)
 「戦争は誰もが傷付く」「絶対に起こしちゃいけないよ」。今年4月に開設された太田市平和祈念館(同市下浜田町)。夏休み中に訪れた親子が、祈念館を運営する「戦争を語り継ぐ会」(新島敏明代表)の会員の言葉に聞き入っていた。

■遺品展示や解説
 会は戦争遺児を中心につくられ、遺品などの展示と解説を通じて戦争の悲惨さを伝える。一角には軍服やゲートルが置かれている。来館者の着用を手助けしていた木村久子さん(82)=同市小舞木町=は「二度と子どもたちがこういうものを身に着けることがないようにしてほしい」と話す。

 1937年に同市に生まれた。父の末次さんにかわいがられ、小学校に入学する時は革靴やランドセルを買ってもらった。2年生に進級すると戦争が激化。軍用機を製造していた中島飛行機の関連工場が数多くあったため、米軍の爆撃が襲い始めた。

 警報が聞こえると、取る物も取りあえず家の防空ごうに逃げ込んだ。一番怖かったのは、爆風で防空壕の戸が開いてしまうこと。土砂が勢いよく吹き込み、「生き埋めになってしまうのではないか」と恐れた。
 その頃、末次さんの沖縄への出征が決まった。青いワンピースを着て、日の丸の旗を手に見送ったおぼろげな記憶。「どこかへ行ってしまうんだ」と幼心に感じた。

■遺骨なく土や石
 空襲が激しくなると、祖母や妹と栃木県野上村(現佐野市)に一時疎開し、45年8月15日、太田の自宅で玉音放送を聴いた。「空襲がなくなるのはうれしかった」が、今後への不安もあった。

 ほどなくして、父の死を知らせる死亡告知書が届いた。手違いか、同じ内容の書面が3回も届き「母は何度も父の死を突き付けられ、たまらなかっただろう」と思いやる。大黒柱を亡くし、代わりに祖父が家計を支えた。物資が不足する中、調味料から風呂まで、隣近所で助け合って生活をつないだ。

 出征前の父と最後に面会した高崎へ、母たちと遺骨を受け取りに行った。帰宅後に箱を開けると、中に骨片は確認できず、赤茶色の土や石のようなものが入っていた。数十年後、戦争遺児として初めて訪れた沖縄の土は同じ赤茶色だった。

 手放せなかった死亡告知書を「何かの形で役立ててもらえれば」と提供したことがきっかけで、会の活動に関わるようになった。会員同士で話し合うと当時の思い出がよみがえる。「家族を亡くし、大変な思いをした経験を直接伝えたい」。戦争を知らない世代に平和の尊さを訴えていく。

《取材を終えて》強い思い伝わる…椿七実記者(24)
 生々しい戦争の記憶に触れ、二度と悲しい歴史を繰り返してはならないと痛感した。来館した小学生の女の子は取材を重ねるうちに「帰ったら家族にも伝えたい」と話してくれた。木村さんをはじめ会員に共通した平和への強い思いは、来館者に確かに伝わっている。

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