《あの夏 20代記者が伝える戦争》憧れの軍人 悲惨な現実
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昔の絵やアルバムを見返す飯島さん

◎高崎・軍国少年だった・飯島利光さん(87)
 描かれていたのは、空を舞う多数の戦闘機と火を噴く軍艦。船体には「僕が大きくなったら」の文字が並ぶ。飯島利光さん(87)=群馬県高崎市倉賀野町=は数十年前、同窓会で恩師から1枚の紙を手渡された。高等小学校時代、将来の夢を題材にした墨画だ。「軍人になりたい」。幼く、危うい夢だった。

■攻撃開始に沸く
 同市に生まれ、尋常小学2年の時に戦争が始まった。真珠湾攻撃を告げるラジオ音声に学校中が盛り上がった。兵隊の演習風景を見たくて、弟たちと草を刈って干し、軍馬の餌用に部隊へ持っていったこともある。「当時の少年には、軍服を着こなし軍刀を持つ軍人は憧れだった」

 高等小学校に進む頃には戦況は悪化し、本県の上空にたびたび米軍の戦闘機が現れるようになった。高崎市史によると、1945年7月10日や8月5日には高崎も爆撃を受け、多数の死傷者が出た。B29や艦載機は鉄橋や列車も狙った。空襲警報が鳴ると、年下の子を連れて防空ごうに飛び込み、じっと身を隠した。同日の前橋空襲。壕の中から見上げると、真っ赤な空。「あの色が忘れられない」とつぶやいた。

 家では米や小麦、イモなどを作っていたが、供出により米を納めると手元には半分も残らなかった。サツマイモでかさを増したご飯や、祖母の手打ちうどんを弟や妹、横浜から疎開してきたいとこたちで分け合った。戦後間もなく、焼け野原だった東京・上野を訪れた時。手にしたおにぎりを、瞬く間に路上生活の子たちが奪っていった。

■食べるのに必死
 誰もが食べることに苦しんだ時代だった。今は好きなものを好きなだけ食べられる。衣食住に恵まれ、平和になった。だが、「当たり前にある豊かさに、いつしか飲み込まれてしまっている」と省みる。

 製造業に就いた後、南洋諸島の戦場に赴いた同僚から聞いた体験談が忘れられない。トウモロコシ畑に潜って身を隠したところ、米軍の戦車に何度もひかれ、深く潜っていた自分は仲間が踏み付けられるのをただ見ているしかなかった―。憧れだったはずの軍人の現実はあまりにも悲惨だった。戦争を起こしてはいけないとの思いを強くした。

 体験を語り伝えられる人は年々減っていく。近年は憲法改正の機運が高まりつつある。だからこそ、と力を込める。「国同士で話し合い、戦争や原爆の怖さを世界中の人が知るべきだ。戦争から得られるものなど、何もない」

《取材を終えて》人生の彩り奪われる…飯島礼記者(25)
 飯島さんは記者の祖父。じっくりと戦争の話を聞くのは初めてだった。遊びたい盛りに毎日空襲に怯え、早朝から工場で働いていた。戦争は尊い命だけでなく、人生を彩る豊かな経験や時間をも奪った。「子どもや孫にこんな思いを味わわせたくない」。祖父の言葉を忘れない。

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