《刻む 前橋空襲》焦土に復興への底力 米軍撮影の記録映像
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「前橋の街並み風景その他」(昭和館提供)の一場面。前橋市千代田町3丁目の立川町通りにあった前橋電気館から南向きに撮影している

 今月5日で75年を迎える前橋空襲は、犠牲者535人と群馬県内最多の戦死者が出た。惨劇を心に刻み、未来に残そうとする人々に焦点を当てる。

   ◇  ◇  ◇   

 赤城山を背景に、焦土と化した街並みが映し出される。がれきの片付けや住宅の再建に精を出す人たち。荷馬車やリヤカーがせわしなく行き来する。

 1945年8月5日夜、前橋市街地の8割を破壊した前橋空襲。約2カ月後の同年10月、米軍が地上から撮影した映像が残っている。戦争に関する資料の収集と展示を行う昭和館(東京都)が所蔵する「前橋の街並み風景その他」。長さは6分20秒で音声はなく、戦災の跡が生々しい市街地や、前橋公園で上演された「前橋復興舞踊大会」の様子が記録されている。

 今年3月に閉館したあたご歴史資料館(同市住吉町)学芸員の原田恒弘さん(82)、調査員の田名網雅久さん(56)が映像を解析。「最初は素朴な好奇心」(田名網さん)で取り組み始めたが、撮影された場所や方角を8割ほど特定し、7月に報告書にまとめた。

 調査を進めるうちに気付いたことがある。映像は47もの場面に分かれ、時系列ではなく何らかの意図で編集されていた。田名網さんは「戦果の記録にとどめず、ストーリー性を持たせている。撮影者は焼け野原から立ち上がった市民の底力に、感じるものがあったのではないか」とみる。

 「気持ちを一つにして助け合っている姿に驚いた。この人たちのおかげで前橋が復興できた」。13歳で前橋空襲を経験した鈴木ヤエさん(88)=同市大手町=も、この映像を7月に初めて見て、心を打たれた。

 当時は前橋高等女学校(現前橋女子高)の2年生。8月5日午後9時ごろ、空襲警報が鳴り響くと、出張していた父を除く一家6人で自宅庭の防空ごうに逃げ込んだ。東の空に見えたのは「糸の花火がちらちらと落ちてくるような」光景。街中に大量投下された焼夷しょうい弾だった。

 幸い人家は無事で、家を焼け出された親戚らと身を寄せ合って暮らした。米寿を迎えたのを機に今年、自分の体験を書き留めた冊子を作成し、孫や知人に贈った。米軍の映像を含め、「多くの人が、それぞれの形で歴史を伝えることが戦争の危機へのブレーキになる」と強調する。

 原田さんは7歳で前橋空襲に遭い、多くの犠牲者が出た広瀬川沿いの比刀根橋防空壕に避難し、奇跡的に助かった。被害者の立場から悲惨な体験を語ってきたが、今回の調査を通じて「戦争では敵味方に分かれたが、撮影した米軍の兵士も私たちと同じ一人の人間」との思いを強めた。

 映像から読み取ったのは「過去を真摯しんしに受け止め、違う明日をつくっていこう」というメッセージ。でも、周りに押し付けるつもりはない。「調査はありのままを伝えることが目的。感じ方は人それぞれでいい」。誰かの言葉ではなく自分自身で考えることが、平和の希求と信じている。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
関連記事