《刻む 前橋空襲》犠牲女学生 供養の観音像 惨禍の記憶継承
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
観音像を見つめる樋田淳一郎さん夫妻。「何年たっても忘れられない」という

 1945年8月5日の前橋空襲では723トンもの爆弾が落とされ、街中を火の海にした。米軍機は爆撃に先立ち、周囲を照らすための照明弾を4カ所に投下。真下には前橋市国領町の平方実業女学校(旧明和高の前身)があった。寄宿舎で生活していた生徒4人が直撃弾などの犠牲になった。

 その1人、当時2年生の樋田智恵子さんを供養する観音像が、実家の丸木屋旅館(長野原町川原湯)敷地内に建つ。八ツ場ダム建設に伴って旅館は2014年に現在地に移転し、観音像も移設された。智恵子さんの兄、樋田淳一郎さん(93)は「思いやりのある子で頼りにしていた。何年たっても忘れられない」と像を見つめる。

 淳一郎さんは1945年当時、無線電信講習所(現電気通信大)に所属していた。東京・板橋の親族宅に身を寄せており、8月、泊まり込みの通信訓練から帰ると、父から届いた手紙が置かれていた。「智恵子が骨になって帰ってきた」とあり、妹の死を知った。

 前橋市発行の「戦災と復興」によると、裁縫学校として創立された同女学校は45年4月から学校工場となり、生徒は陸軍将校の軍服を製作していた。智恵子さんはいつ空襲警報が鳴っても持ち出せるように、枕元に仕事道具のミシンを置いていたという。

 淳一郎さんの妻、ふさ子さん(91)も同校卒で智恵子さんの1学年上。「寄宿舎の部屋長で責任感が強かったそう。空襲当日は重いミシンを運んでいて逃げ遅れたと聞いた」と話す。

 明和短大(同市昭和町)の敷地内にも女学生をかたどった慰霊像「明和観音」と殉難碑が建ち、明和高は2005年に閉校するまで8月5日に慰霊行事を開いていた。閉校後も数年は有志が集まっていたが、現在、外部の人が立ち寄ることはないという。短大は来春、平方学園から共愛学園に移管され名称も変わる予定。時代の流れとともに、度重なる学校再編が歴史の継承を難しくさせている。

 智恵子さんの同級生で寄宿生だった富沢里子さん(90)=東吾妻町新巻=は半世紀前からたびたび観音像を訪れ、淳一郎さん夫妻と交流を深めてきた。08年には同級生22人が丸木屋で同窓会を開いたが、近年は亡くなったり、施設に入所したりして一緒に訪ねる仲間はわずか。「あの若さで亡くなってあまりにも気の毒。体が動くうちはお参りに行きたい」と言葉に力を込める。

 悲しみや憤りなどの感情が入り交じり、夫妻はこれまで戦争や空襲について積極的に話すことはなかったが、体験者が少なくなった近年はこう感じている。「私たちが受けた苦しみを繰り返さないためにも、きちんと伝えないといけない」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
関連記事