「全員退避」経緯記す 伊勢崎空襲直後の市長の記録文書見つかる
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新たに見つかった記録文書の一部
板垣源四郎(「伊勢崎市史」より)

 1945年8月14~15日の伊勢崎空襲直後に初代伊勢崎市長、板垣源四郎が書いた記録文書が見つかった。空襲時の初期防火を重視する県に対し、いち早い「全員退避」を命じた経緯が書かれている。8月5日の前橋空襲の被害状況を判断材料にしたことや、前橋市長の堀康雄との生々しいやりとりも記されている。戦後75年を迎える中、市政トップが市民の命を守るため、何を考え、行動したかが分かる貴重な資料といえそうだ。

 板垣の文書としては旧市役所文書(市立図書館蔵)に「卓上日記」があるが、公務記録が中心だった。

 新たな記録文書は同市茂呂町の丸橋利光さん(73)が7月下旬、古物を扱う桐生市内の商店で発見した。表紙は「日誌 株式會社板垣商店」などと墨書きされ、冒頭のメモから、空襲でそれまでの記録の控えが焼失したため、金庫内で焼け残った帳簿を転用したことが分かる。約300ページの多くは農地や税関係、退職願、公職追放に関する文書などの控えで、履歴書や家系図も書き込まれていた。

 終戦前夜8月14~15日のB29による空襲で、市長室の真上でも爆弾が発火したものの、市役所に大きな被害はなく、職員も無事だったことが記されている。一方、自宅や店舗は〈跡形ナク全焼〉。地区別の被災者一覧がきちょうめんに記されている。

 欄外には細かな字で、直前に空襲があった前橋市役所を見舞い、焼け跡を検分したことを記録。県が初期防火を指示していたのに対し、自身の防護団長の経験を踏まえた考えや前橋市長とのやりとりを書いた。

 〈初キ防火ハ大空襲に際してハ却て人命の損害を大きくするものとの観念を抱き居り堀市長と其点話し合ヒ多るも堀氏が同感なりと答へ多り〉、〈先づ全員退避を命令し多結果下記の如く比較的死傷者を少数に食止め得多るハ不幸中の幸とする處なり〉とつづった。

 同年8月16日付の上毛新聞にも、〈完全避難を趣旨としてゐたため人命の被害が比較的僅少であったことは幸ひである〉との板垣の談話が掲載されているが、新たな記録文書から、前橋空襲を視察したことで完全避難の決意を固めた経緯が明らかになった。「伊勢崎市史」によると、空襲被害は死者40人、負傷者165人。

 近現代史に詳しい群馬地域学研究所代表理事の手島仁さんは「初代市長として責任感を持って真摯しんしに市政に取り組んだことを物語る資料。コロナ禍でも、いかにトップが的確な判断をすべきか学ぶべきところがある」と話している。

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