《戦後75年 つなぐ記憶》中野学校の真の姿を 父の体験記す冊子製作
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陸軍中野学校出身の達雄さん(左)。諜報活動のためか中国風の服を着ている=旧満州のハルビン(須藤さん提供)
高崎電気館を訪れた須藤さん

 父が学んだ陸軍中野学校を正確に知ってほしい―。群馬県高崎市出身で埼玉県川越市に住む須藤元さん(72)が、戦時中に徴兵され、同校を経て諜報ちょうほう員となった父の達雄さん(故人)について記した冊子を製作した。14日まで映画「陸軍中野学校」(1966年製作)を上映している高崎市柳川町の高崎電気館で、観覧者に無料配布している。

◎脚色されがちな父の出身校 イメージは「現代の忍者」
 達雄さんは1918年、旧車郷村(現高崎市箕郷町)生まれ。須藤さんによると、39年に同市にあった歩兵第15連隊に入り、41年に中野学校を出た。旧満州では対ソ連工作に関わり、対ソ開戦した場合にはシベリア鉄道を破壊する任務を負っていたという。

 43年に現在のインドネシアに転任し、終戦を迎えた。オランダ軍の捕虜収容所で2年を過ごし、帰国。その後、箕郷町役場に勤務し、収入役まで務めた。

 須藤さんは達雄さんが亡くなる前に末期がんで入院した際、ソ連への恐怖をうわ言で繰り返していたのを思い出す。「強大なソ連と直面した緊張感の記憶が出たのでは」と心中を推し量る。戦時中の出来事で達雄さんから聞いたのは断片的なことだけで、多くを語らなかったという。

 須藤さんは、「スパイ学校」などと脚色されがちな中野学校について、雑誌社に勤めた経験も生かし、自ら調査に着手。同校出身者の子息による「中野二誠にせい会」に参加し、同校を巡る正確な情報や資料の保存、伝達に力を入れている。

 成果を収めた冊子には、「日本のジェームス・ボンドになれなかったお父さん」と題を付けた。子どもだった須藤さんが達雄さんに「ボンドみたいな撃ち合いをしたのか」と聞くと、ただ笑うだけ。軍人のイメージはなかったという。須藤さんは中野学校について「当初は平時に外国で、現地に溶け込み地道に情報を収集する『現代の忍者』を育てようとした」とみている。

 冊子はA5判、36ページ。2年前に作り、映画「陸軍中野学校」を上映すると知って高崎電気館を訪れ、提供した。最終日の上映は午後1時半から。上映後、須藤さんが同校について解説する映像も放映される。

 陸軍中野学校は、前身が1938年に創設され、終戦で閉鎖・廃校となった。本土決戦に備え、45年春には富岡市に移転した。

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