《戦後75年》悲劇伝える最後の機会 旧満州の葛根廟事件 生存者の大島さん(みなかみ出身)が記念誌
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自身の体験を語り継ぐ大島さん=映画「葛根廟事件の証言」より

 太平洋戦争が終わる前日の1945年8月14日、旧満州で日本人避難民がソ連軍に襲撃された「葛根廟かっこんびょう事件」。数少ない生存者の一人で、みなかみ町出身の大島満吉さん(84)=東京都練馬区=が生存者の寄稿などをまとめた記念誌を発行した。極めて悲惨で、語り手が少ないこともあり、あまり知られていない。戦後75年となり、戦争体験者の高齢化が進む中、「次世代に伝えられる最後のチャンス」と語る。

 大島さんは旧新治村生まれ。3歳の時に家族と満州西部の都市、興安街に渡り、建築業の父と母、きょうだい4人で暮らした。9歳だった45年8月9日にソ連が満州に侵攻。「市民を守ってくれる」と信じていた関東軍が撤退していた事実は後から知った。

ソ連軍の戦車隊

 一家を含む約1300人の避難民は南東へ約40キロのラマ教寺院、葛根廟を徒歩で目指した。14日の昼前、草原で一休みした時だった。「逃げろ!」と指揮官の怒鳴り声。ソ連軍の戦車隊が突っ込んできた。

 自然にできた大きなごうを見つけて逃げ込み、息を殺した。戦車の地響き、機銃掃射の音、人の悲鳴―。さらに銃を抱えた3人のソ連兵が降りてきて銃撃を始めた。静かになって辺りを見回すと、壕の中だけで数百人が亡くなっていた。

 動けなくなった重傷者も多く、居合わせた在郷軍人が「自決を望む人はほう助する。幼児は親の手で処理するように」と告げた。大島さんと母、弟、妹は無事だったが、父と兄の姿は見当たらない。食糧も、行く当てもない。途方に暮れた母は「どうしようかね」とつぶやいた。「死ぬしかない」という意味に受け取った。

 「ごめんね、母さんもすぐ行くからね」。母は倒れていた在郷軍人の刀を借り、3歳の妹ののどを突いた。重苦しい空気の中、残った母子3人は自決を待つ列に並んだ。襲撃で両親を亡くした同級生と再会したが、交わす言葉はなかった。

呵責の念消えず

 無言で待っていると、人影が近づいてきた。「お前たち生きていたのか。すぐにここを出よう」。父と兄だった。「この場所で死ぬ」と抵抗する母を父が説得し、5人で脱出した。妹の魂や同級生を置いてきたという呵責かしゃくの念は「生きている限り消えることはない」という。

 一家は満州の首都、新京で苦しい生活に耐え、46年10月に帰郷。父の肇さんは70年、事件の生存者や遺族らでつくる興安街命日会を立ち上げた。現在は大島さんが代表を引き継ぎ、毎年8月14日に都内で慰霊祭を開く。

 我が子を手にかけてしまった母の心情を思い、自らの体験を語り始めたのは10年ほど前だ。2014年に事件の証言録を刊行したのがきっかけで、高崎市出身の田上龍一さんが17年、ドキュメンタリー映画「葛根廟事件の証言」を製作した。

 75周年の記念誌「今に想う」は、生存者ら25人の寄稿や聞き書きを収めた。「戦争は一度動きだしたら止まらない。こんなはずではなかったと後で知ることになる」。今年の慰霊祭は新型コロナウイルスの影響で中止を余儀なくされたが、不戦の思いを訴え続けるご

 葛根廟事件 1945年8月14日、旧満州の葛根廟(現在の中国内モンゴル自治区)近くで日本人避難民がソ連軍に襲撃された。自決や避難途中の死亡も含めて死者千人以上とされ、多くは女性と子どもだった。翌年の日本引き揚げで帰還できたのは約120人。後の調査で残留孤児約30人が確認された。

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