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大正から昭和初期にかけて、旧佐波郡茂呂村(現群馬県伊勢崎市)の蚕種業者、小林多一郎(1889~1949年)が養蚕の講習所「適蚕館」を運営していた際の写真など資料約250点が市内の民家で見つかった。残された卒業証書の書き損じから、講習生を県外からも受け入れていたことが分かる。蚕種製造については、世界遺産のある同市境島村が広く知られるが、他の地域での蚕種製造や後進育成の実態を知る上で貴重な資料になりそうだ。
資料は多一郎の孫、
「第二回卒業記念」「開講十周年記念」などと記された集合写真のほか、適蚕館蚕種製造所で女性が4人一組になって雌雄鑑別を行っている様子を多一郎が案内している場面もある。農林省蚕糸局長の井野
講習生の名簿は見つかっていないものの、書き損じた卒業証書に「京都府何鹿郡中上林村」と生徒の住所が記されており、県外出身の講習生がいたことがうかがえる。
多一郎は東京の西ケ原高等蚕糸学校卒。1920(大正9)年に「晩秋蚕飼育法」を刊行した。その巻末に「適蚕館講習所規定」と入学願の書式を掲載しており、講習所は翌21年に始まったとみられる。実習を中心とした3年制で寄宿して学び、食事は無料だった。
県内の蚕糸業史に詳しい共愛学園前橋国際大名誉教授の宮崎俊弥さんは適蚕館の仕組みが高山社蚕業学校(藤岡市)によく似ていると指摘する。「病気になりにくい蚕の一代交雑種が普及し、きめ細かな飼育法を教えていた高山社が衰退していた時期。それにもかかわらず、多一郎が私設の講習所を作ったのは、蚕種業や養蚕に自信を持っていた証拠だろう」としている。
見つかった資料には、県議を務めた森川抱次ら佐波郡の蚕種業者と4人で台湾へ視察に行った際の記録写真や、蚕種会社設立に関する書類もあった。市内の蚕種業者に関する今後の研究に生かせるよう、同市図書館が調査し、資料の目録作りを進めている。