震災10年 思い重ねて 孤独深める避難者 慣れぬ地で夫失う
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夫を亡くし、一層孤立を深める妻。「慣れない生活で苦労がたたったのだろうか」と話した=1月下旬、高崎市内の自宅アパート
 

 東日本大震災から3月で10年の節目を迎える。津波でかけがえのない人を失ったり、原発事故でやむを得ず古里を離れたりしても、懸命に歩み続ける人たちがいる。群馬県に避難してから過ごした日々や今後の人生、支援を続ける人たちの思いを取材した。

◎郡山から避難 心無い非難も乗り越え
 看護師のネームホルダーに、はにかんだような男性の笑顔が写っている。福島県郡山市から高崎市に避難していた松田健宏さんは2年前に膵臓すいぞうがんで、39歳の生涯を終えた。妻は「夢だった看護師になれたばかりだったのに」と涙を浮かべる。東日本大震災から3月11日で10年になるのを前に、群馬に避難した人の中には一層孤立を深めている人がいる。

 松田さん一家は、2011年に郡山市内で東日本大震災を経験した。同市は東京電力福島第1原発から50キロほど離れ、避難指示区域にはならなかった。だが、風の影響もあり、放射線量が高い「ホットスポット」が存在。小中学校や公園は除染され、自由な外出がままならない日々が続いた。

 福島県内にとどまるか、自主避難するか。1年ほど葛藤し、12年3月に高崎市に引っ越した。

 避難を決めたのは、ダウン症の長男=当時(3)=のためでもあった。ダウン症の子どもは体が弱く、放射線の影響で急性白血病にかかりやすいとされる。松田さんは福島県で勤めていた警備会社を辞め、看護師だった妻も病院を退職した。

 群馬に家族や親戚などはおらず、直面したのは孤独な暮らしだった。福島ナンバーの車を見て「原発が来てる」と言われたことも。「周りに心を許せる人がいなかった」という。自主避難のため東電からの賠償はほとんどなく、経済的に苦しかったものの、家族でつつましく暮らしていた。

 職を得るため、松田さんは妻と同じ看護師になることを目指した。太田市内の看護学校に通い、妻の教えも受けながら勉強に励み、試験に合格した。

 高崎市に避難して7年目の春のこと。「胃が痛い」。前橋市内の病院で働いていた松田さんが体の異変を訴えるようになった。膵臓がん―。腫瘍は大きく、手術ができないほど進行していた。「抗がん剤治療を行ったが腫瘍は小さくならなかった。体重も落ちていって歩けなくなって」。松田さんは19年4月、帰らぬ人となった。

 松田さんが亡くなり、妻の孤独はより深まった。自宅には、一緒に座っていたソファが残るが、松田さんが着ていた服はすべて処分した。思い出して泣いてしまうからだ。「慣れない土地での精神的な苦労があったのだろう。でもなぜこんなに若くして…。放射線被ばくではないのか」。妻の疑念は膨らむとともに、今も夫の死を受け止めきれずにいる。

 郡山市には戻れないと考えている。妻は「いったんは『古里を捨てた人』だから」と言う。まずは生計を立て直したいと就職活動に取り組み、今春から県内の病院に就職することも決まった。少しずつ希望が見えてきたが、妻はどこにぶつけたらいいか分からない怒りや戸惑いを今も抱く。「10年前の原発事故で全てが変わってしまった」

 【メモ】 群馬県によると、福島、岩手、宮城3県からの避難者は1月末で675人。ピーク時の2011年3月27日時点の3730人から5分の1程度まで減った。避難状況の届け出は任意で、転居などによって行方が追えないケースも出ているという。地域になじめずに孤立する人は多く、地域とのつながりを育んでいくための支援が課題となっている。

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