幻の「内藤分ステーション」 初代前橋駅「内藤分村停車場」が群馬県文書に 明治前期に5年だけ存在
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1886(明治19)年、県職員だった永島隼太さんに「内藤分村停車場」への出張業務を命じる辞令

 1884(明治17)年に開通した上野―前橋間の鉄道路線の起点「前橋ステーション(内藤分ステーション)」の公式名称が分かる群馬県の文書が、前橋市三俣町の医師、永島勇さん(87)方で見つかった。同駅への出張業務を命じる辞令で、駅名は「内藤分村停車場」と記されている。近現代史に詳しい群馬地域学研究所の手島仁代表理事(61)は「わずか5年間しか存在しなかった初代前橋駅のことを知る上で貴重な資料」と評価している。

 文書は、永島さんの祖父、隼太さん(1851~1922年)の遺品から見つかった。隼太さんが1880~90年代に県職員を務めていた頃の辞令で、交付日は86(明治19)年7月30日。「御用有之日々内藤分村停車場出張申付候事」と記され、県庁宛てに届くものを毎日、停車場に取りに行く役割を命じている。

 同駅は、日本初の私鉄、日本鉄道による上野―高崎間の建設計画を受け、初代県令の楫取素彦や初代前橋市長の下村善太郎、同市内の豪商らが同社の株主となって前橋への延長を要請し、上野―高崎間開通から3カ月後の84年8月、現在の同市石倉町に敷設された。主に生糸の運搬に利用されたが、89(明治22)年に利根川に鉄橋が架設され、現在のJR両毛線が開通したことで廃駅となった。跡地付近には「内藤分ステーション」と刻まれた石碑が立っている。

 手島さんによると、同駅が利用された期間は5年に満たないことから、駅舎の錦絵や写真など、当時を知る資料はほとんどないといいう。「ステーション」という呼称について、手島さんは「建設が計画された明治初期は、西洋文化を取り入れる風潮があった。鉄道は近代化の象徴として、駅名を英語で呼ぶのが一般的だった」と説明する。

 永島さんは「まさか祖父の辞令が珍しいものだとは」と驚く。隼太さんに関する資料は、一括して県立文書館(前橋市)への寄託を検討するという。手島さんは「隼太さんに課せられた職務から、鉄道が経済的な面だけでなく、政治的にも重要だったことが分かる。県庁宛てにどんなものが停車場に届けられたのかが分かるような、新たな資料が見つかるといい」と期待を寄せている。

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