《五輪ソフト》上野快投 再登板して逃げ切る 再び「胴上げ投手」に
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米国を破って金メダルを獲得し、両腕を突き上げる上野=横浜スタジアム 日本―米国
5回、藤田が適時打を放つ。手前は二走山本=横浜スタジアム 日本―米国
日本―米国 6回途中から登板した後藤

 決勝で日本が1次リーグで敗れた米国を2-0で下し、前回実施された北京大会以来13年ぶり2度目の金メダルを獲得した。米国は北京に続いて銀メダル。

 日本は四回に渥美万奈(トヨタ自動車)の適時内野安打で先制し、五回に藤田倭(ビックカメラ高崎)の適時打で加点した。先発の上野由岐子(ビックカメラ高崎)が2安打無失点と好投。六回に先頭打者の出塁を許すと後藤希友(トヨタ自動車)を投入してピンチを防ぎ、七回に上野が再登板して無失点リレーで逃げ切った。3位決定戦ではカナダがメキシコを3-2で下し、銅メダルを獲得した。

 ▽決勝

日本
 0001100―2
 0000000―0
米国

(日)上野、後藤-我妻
(米)オスターマン、カルダ、アボット-ムンロ

◎北京五輪から13年 歓喜再現「もう感無量」

 最終七回裏、2死走者なし。上野は焦りも隙も見せなかった。米国打者が力なく打ち上げた邪飛が、ぽんと捕手我妻のグラブに収まると満面の笑みで抱き合った。13年が過ぎた。かつての圧倒的な投球ではなかった。それでも日本の鉄腕はマウンドですべてを出し切り、再び優勝投手として金メダルを首に掛けた。

 初回はリスクを避ける意識からかボール先行の苦しい投球で22球。そこからカナダ戦でつかんだ「データでなく感覚に従う投球」で回転や質の修正を図り、三回は9球、四回は12球で三者凡退とテンポを上げた。5回0/3を無失点で一度降板して後藤に任せると、七回の花道に再登板。「最後は上野にしかできない」という宇津木監督の信頼を背にエースの務めを全うした。

 2008年北京優勝の世代は多くが去り、04年アテネから2大会の経験を若手に伝える立場だった。宇津木監督に投手陣のコーチングを任され、国際試合で出番がない時は若手を親身に指導して送り出した。少しでも投球の引き出しが増えればと。だが、なかなか次代の芽は出なかった。

 「才能はあるのに、なんであと少し努力をしないんだろう。もったいない」と思いつつ理解もしていた。1996年アトランタから北京まで代表は五輪で金メダルを狙う集団であり、自身もその蓄積の中にいた。「代表入りで満足な子が少なくない」。2013年の招致決定まで五輪と断絶していた影響を肌で感じた。

 20代で世界最速121キロを記録した直球は徐々に遠ざかったが、新たな変化球を探求し、投球の幅を広げ続けた。「(球種を)増やしたくて、増やしたんじゃない」と漏らしたことも。理想と違う形でも日本のエースという使命を追った。

 16年に左ふくらはぎを痛め、左膝の古傷も影響して競技人生初の長期離脱を経験。19年は日本リーグの試合中に左顎を骨折して手術し、復帰に約4カ月費やした。それでも「投げられるまで投げてやる」と自らを鼓舞して立ち上がった。

 身を削り続ける姿勢は少なからず影響を与えた。今五輪で打棒の目立った主砲山本や投打「二刀流」の藤田、内藤らは「あれだけ上野さんがやってるから」という。自らも成し遂げたいという気概、負けん気。上野がいることで引き出された力は少なくなかった。

 上野は北京の感動と仲間の絆を心に刻み、「あの瞬間は2度と味わえない」と思っていた。だが、表彰式で金メダルを受けると「もう感無量。前回と違って重圧が大きかった。諦めなければ夢がかなうことを多くの人に伝えられたと思う」と再現以上のものを得た。39歳で迎えた最高の夜は、北京の413球を超えて語り継がれる。(田中暁)

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