斎藤章児さん逝く 県内私学野球の先駆者 関係者が哀悼
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上毛新聞の取材を受ける斎藤さん=2012年

 農大二、立大監督として多くの野球人を育成し、ユニホームを脱いでからも群馬県内の高校野球の向上に尽力した斎藤章児さん(79)の訃報に、関係者から惜しむ声が広がった。しのぎを削ったライバル監督、ともに甲子園を戦った教え子、助言をもらった後進の指導者ら、誰もが「群馬の私学野球の先駆者」と認めた。「群馬の野球を強くする」という使命に燃えた生涯だった。

◎「群馬を強く」尽くした生涯

 健大高崎の部訓「不如人和ふにょじんわ」(人の和にかず)は10年ほど前、斎藤さんが野球部を訪れて「団結力はすべてに勝る」と語ったことに始まる。青柳博文監督(46)が甲子園まであと一歩届かず悩んだ時期で、指導の柱に据えた。交流は続き、甲子園で試合が終わるたび投手の交代時期など意見をもらった。「(農大二の)直接の教え子ではないが、ずっと『先生』と思っていた」と感謝は尽きない。

 斎藤さん率いる農大二の好敵手、前橋工の監督を務めた高橋幸男さん(69)は、1994年夏の県大会決勝での対戦が印象に残る。一、二回で得点し、「甲子園がちらついた途端」、大量点を奪われて敗れた。全国で勝つために磨かれた戦術、驚異的な粘り強さがあった。「だから負けじと自分たちも頑張れた」。斎藤さんは引退後に前橋工を訪れ、「高橋君、まだまだ頑張れ。群馬のために頑張れ」とエールを送ったという。

 農大二が夏の甲子園に初出場した82年の主戦で、元ヤクルトの阿井英二郎さん(54)=札幌国際大教授=は「1勝して握手したことが思い出される。教育者として生きる目標になった恩師」と話した。89年夏の甲子園に二塁手で出場した元広島の高山健一さん(47)=広島スカウト=は「勝つための準備、実力を発揮するための心の大切さを教わった。人としてどう在るべきかも。今はただ悔しい」と声を絞った。

◎「心のキャッチボール」人間形成の重要性説く

 斎藤章児さん率いる農大二は1982年、夏の甲子園に群馬県の私学として初めて出場した。当時は公立校隆盛の時代。前年まで3連覇していた前橋工や伝統校の高崎商を下しての頂点だった。私学指導者の草分けとして農大二を強豪に育て上げ、県球界に大きな影響を与えた。

 桐生の故・稲川東一郎監督と戦うため、群馬で監督を志した。当初は精魂込めて練習したが望んだ結果は得られなかった。「選手たちと心が通い合っていなかった。自分で、自分の野球をやっていただけだった」と自著で振り返っている。

 基本に立ち返る中で見いだしたのが「心のキャッチボール」という概念だ。単純なキャッチボールでも相手を思いやる。その気持ちが連係や仲間を信頼した思い切ったプレーに発展する。野球で重要なチームワークを育み、結果を出した。

 数々の名勝負も演じた。樹徳と対した87年夏の準々決勝。初日は1―1の六回表で降雨のためノーゲームとなり、翌日の再試合は延長十七回の末、9―11で敗れた。決勝点は劇的な本盗。2日間で23回に及ぶ死闘は、今でもファンの間で語り継がれている。

 2度目の夏の甲子園となった85年をずっと胸に抱えていた。選手の父が応援のため乗った日航ジャンボ機が、御巣鷹の尾根に墜落した。斎藤さんは当時2年生だったその選手を登録メンバーに選んでいたことを中傷されたが、反論しなかった。自分が矢面に立てば、好奇の目から教え子を守れると考えた。

 2017年夏、三十三回忌の節目にOB有志と上野村の追悼慰霊施設「慰霊の園」を初めて訪れた。「いつか来なければと思いながら、ずっと決断できなかった。やっと果たせた」と吐露した。もし、ベンチに入れなければ―。誰より悩み、誰にも言えず自責を続けてきた孤独があった。

 監督から退いた後も講演や執筆活動などを精力的に行った。人間形成の重要性を説き、野球の発展に尽力し続けた。

「存在大きかった」明和県央・東野威総監督(77)の話
 「(前橋商などの監督時代に)農大二の台頭を脅威に思った。破らなければ甲子園に行けず、負けないようにやっていた。斎藤さんの存在は大きかった」

「教えてほしかった」前橋育英・荒井直樹監督(54)の話
 「コーチとして群馬に来た1年目、『簡単に勝てると思うな』と練習試合で言われ、実際そうだった。まだいろいろなことを教えてほしかった」

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