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元農大二高野球部監督で、脳出血のため79歳で亡くなった斎藤章児さんの告別式が7日、群馬県高崎市内の葬儀場で営まれた。前日の通夜と合わせ、教え子や野球関係者ら計900人が参列。春夏計6度の甲子園出場を果たした名将との別れを惜しんだ。
式では、同高野球部OBを代表して大島和幸さん(59)が弔辞を読んだ。大島さんは、斎藤さんを「群馬の私学野球の先駆者」と評し、「OBにとって、教師であり、監督であり、厳しい父であり、頼もしい兄だった」と振り返った。
親族を代表し、長男の慎介さん(46)があいさつ。「皆さんの中に父の思い出がある限り、いつも父はそこにいます」と声を詰まらせた。
立大の先輩である巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんらの弔電が読み上げられた。1985年に斎藤さんの下で甲子園に出場中、日航ジャンボ機墜落事故で父、竹下元章さん=当時(48)=を亡くした政宏さんからは、「監督と最後の心のキャッチボールができなかったことが残念」と寄せられた。
式では野球部の3年生29人が校歌を斉唱。出棺の際には伝統の応援歌でひつぎを送り出した。同部の坂上泰生監督は「今後も人間形成を第一に考えるという教えを大事にして、甲子園で校歌を天国に届けられるようにしたい」と話した。
80年の選抜大会に出場した際、主戦だった高仁秀治さん(56)=埼玉県戸田市=は「グラウンドでは笑顔一つ見せなかったが、一歩離れると一人の男として接してくれた。まだまだいろいろなことを教わりたかった」と悔しがった。
斎藤さんは67年に農大二高の監督に就任。「心のキャッチボール」を指導の柱に掲げ、春2回、夏4回甲子園に出場し、プロ野球選手も輩出した。2000年からは母校である立大の監督を4年間務めた。