《白球の詩》強まった仲間との絆 高崎東・西沢光生三塁手
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けがを乗り越え、3試合にフル出場した高崎東の西沢=上毛新聞敷島

 8点を追う七回表。「終わらないでくれ」。願いを込めて仲間を鼓舞したが、最終打者は左飛に倒れた。コールドゲームで終了。応援席に感謝の一礼をすると、こらえていた涙があふれた。

◎多くのけが乗り越えフル出場

 野球生活はけがとの闘いだった。安中二中の2年の時、右肘を剥離骨折した。約1カ月で治癒したはずが、間もなく痛みが再発。しかし、野球を離れる怖さから顧問や両親、仲間にも言えなかった。中学時代は痛みを隠してこらえ続けた。

 中学3年の11月には自転車で転倒し、内臓破裂で一時重体となった。肝臓の3割が壊死えしし、入院2カ月で4回の手術によって一命を取り留めた。高校入学時には運動ができるまでに回復し、野球部に入部した。ただ、腹部の手術痕の皮膚はもろく、今も検査に通う。

 肘は相変わらず送球の度に鈍い痛みを引き起こした。それでも大事故から生還し、再び野球をできることが幸せだった。チームメートと信頼関係を築き、肘の状態も悩みも打ち明けた。身長は180センチに伸び、プレーに自信を持てるようになって3年生に進級した。

 ところが4月、右肘が再び悪化。水がたまり、曲げることすら困難になった。水を抜く治療中は打撃練習に専念した。右打ちの支えとなる右腕をかばい、左腕中心のスイング。センター返しを想定し、ひたすら振った。

 それが裏目に出た。息がしにくいほど胸が痛むようになった。診断は左肋骨ろっこつの疲労骨折。原因は左半身への過重な負荷。バットの振りすぎは明らかだった。

 幾つものけがを抱え、練習に加わらず雑用に徹した。グラウンドの草をむしっていると、雑草の丈が日に日に伸びていくことに気づき、焦った。「これじゃ、夏に間に合わない」

 小学4年で野球を始めた。プロ選手に、メジャーリーガーに、と夢見た時もあった。けれども、いつも真っ先に浮かぶのは全国高校野球選手権群馬大会だった。負傷しても、入院をしても、必ず治して高校3年の夏は自分の集大成で迎える。そして「特別な夏」にするんだという一念で耐えてきた。それなのに―。

 「何で自分ばかり、こんな目に」。折れそうな心を表に出したつもりはなかったが、夜になると仲間から電話で「必ず治るよ」と励まされた。焦りと孤独を察してくれる気遣いがうれしかった。

 6月には骨折が完治し復帰できた。右肘に痛み止めの注射を打ち、3試合をフル出場。健大高崎戦では左中間に二塁打を放った。左腕で振り続けた時にイメージしていた通りの鋭い打球だ。

 苦しい時間は長かったけれど、だからこそ工夫をし、努力をし、仲間との絆が強まった。後悔はない。「自分なりの集大成だった」。そう確信できた夏だったからだ。(石倉雅人)

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