《白球の詩》再登板 やり切った 富岡・寺島智紀投手
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2回表に打球が左脚を直撃し、仲間に支えられながら治療に向かう富岡の寺島=上毛新聞敷島

 また投げられなくなったら、どうする。

 期待より不安が大きかった。春の足音が近付いた3月、群馬県富岡市の鏑川南側にある富岡高野球部のグラウンド。およそ5カ月ぶりに投げたボールは、相手のグラブに吸い込まれた。左の鎖骨近くの痛みはなかった。

◎昨秋けが、我慢経て復帰

 兄、純平さん(19)の背中を見て、小学1年生で地元の少年野球チームへ。初めて持ったバットは重かった。

 中学生になって同市のボーイズチームに入った。勝ちを意識し1球、1打席にこだわった。勝負は甘くなかった。県大会は良くて2回戦。そんな中学2年の冬、旧富岡高が選抜大会の21世紀枠で最終候補に。「勉強もできて甲子園も狙える」。進路を決めた。

 異変が起きたのは昨年10月、主戦としてチームを8強まで導いた昨秋の県大会の後だった。左腕の命綱であろう左の鎖骨の下がズキズキした。しばらくするとしびれも出た。試合こそ踏ん張ったが、終われば腕が上がらなかった。

 医者には血管が圧迫され、血流が悪くなっていると告げられた。「胸郭出口症候群」という診断名よりも、二の句が響いた。「運動は控えた方が良い」

 最後の冬なのに。すぐ治ると思ったのに。やるべきことは、いくらでもあるのに。

 「我慢の時期」と割り切ったのは、戦うべきは夏と腹をくくったから。スクワットで下半身を鍛え抜いた。プロテインで体重も管理した。走者を置いた「ケース練習」を何度も見て、自分がやれること、すべきことを考えた。

 そうした思いも駆け巡ったのだろう。ぬぐってもぬぐっても涙があふれた。打席に入っても止めようがなかった。焼け付くような日差しの19日、上毛新聞敷島球場。10点を追う七回裏、3点を返した場面で打順がきた。コールドでは負けられない。もう1点取れば、試合は続く―。

 「仲間がつないでくれた。どうしても当てたかった」
 白球を確かにとらえた。しかし打球は右翼手のグラブに収まり、試合は終わった。

 二回表には打球が左脚を直撃し、立てなくなった。一時右翼に移ったものの、五回表から再びマウンドに上がった。「今まで迷惑ばかり掛けてきたチームを、今度は助けたかった」

 中野光士監督は試合後に振り返った。「夏を投げるためにずっと我慢してきた。代えるつもりはなかった」

 ユニフォームはこれで脱ぐつもり。けがからもらった禍福のどちらが大きいかは、まだ分からないかもしれない。きっといつか、この夏に懸けた全てのことに意味があったと思えるようになる。(五十嵐啓介)

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